一条天皇・摂関家に振り回され後宮で女流文学が花開いた時代の天皇

天皇 4 平安時代

一条天皇は第66代天皇。
10世紀の平安時代に生きた人物です。

名前は懐仁(やすひと)。

藤原兼家の策略により花山天皇が譲位。一条天皇は数え7歳で即位しました。

一条天皇には皇后定子と中宮彰子の二人の后がいて。それぞれの後宮には清少納言や紫式部などの文化人がいて女流文学が発展しました。

一条天皇は藤原摂関家の都合で即位。道長が政治的な権力を手に入れたときの天皇です。そのため一条天皇は道長の傀儡のように思われがちです。確かに摂関家の思惑に振り回されましたが、成人後の一条天皇は自分でも政治や人事に関わりただいいなりになっているだけの天皇ではありませんでした。

しかし後継者を巡っては道長とは考えが違ったようです。

一条天皇はどのような人物なのか紹介します。

 

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花山天皇

称号:一条天皇(いちじょう てんのう)
別名:一条院(いちじょういん)
諱(いみな):懐仁(やすひと)
生 年:980年7月15日(天元3年6月1日)
没 年:1011年7月25日(寛弘8年6月22日)

在位期間:986年8月1日~1011年7月16日

父:円融天皇(えんゆうてんのう)

母:藤原詮子(ふじわらの あきこ)

皇后:藤原定子
中宮:藤原彰子

子: 脩子内親王、敦康親王、媄子内親王、後一条天皇、後朱雀天皇

 

守平親王のおいたち

円融天皇の時代。

980年7月15日(天元3年6月1日)。藤原兼家の屋敷・東三条第で誕生。

父は円融天皇。

母は右大臣 藤原兼家の次女・藤原詮子。

名前は懐仁(やすひと)

懐仁親王は円融天皇 の第1皇子。

永観2年(984年)。師貞親王が即位(花山天皇)しました。

懐仁親王は皇太子になりました。

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一条天皇の時代

寛和2年6月23日(986年8月1日)。花山天皇が出家・退位しました。これは兼家の陰謀とされます。

懐仁親王は数え年7歳で即位。そのため祖父の藤原兼家が摂政に、母の詮子は皇太后になりました。

皇太子には従兄の居貞親王(三条天皇)がなりました。一条天皇より7歳年上ですが。冷泉天皇と円融天皇の両方の家系から天皇を出さなければいけないと考えられていたからです。

当時は冷泉天皇の血筋が正当と考えられていたので一条天皇は中継ぎのように思われていました。

兼家としてもいずれは長女・超子の産んだ居貞親王に天皇になって欲しいと思っていたようです。

中関白家と定子

兼家の死後は道隆が関白になりました。道隆の家は後に中関白家とよばれます。

父・円融院、母の皇太后詮子、叔父の関白・道隆が幼い一条天皇を支えました。

永祚2年(990年)。11歳の一条天皇が元服。
関白・道隆の娘・定子が入内。定子に使えたのが清少納言です。

一条天皇と定子の仲は良く。道隆たち中関白家の人々を安心させました。

道隆は病気になり息子の伊周に関白を継がせようとしましたが、道隆親子と仲の悪い詮子は反対します。

一条天皇は定子の兄・伊周に関白をさせたい気持ちもあったものの、母は反対。一条天皇も伊周を関白にするのは不安だったらしく結局は認めませんでした。

長徳元年(995年)。道隆が病気のため辞任の後、病死。道隆の弟の道兼が関白になりますが10日後に病死しました。

道長と長徳の変

皇太后・詮子の意向により道隆・道兼の弟、道長が内覧(天皇に上奏される文書を見る権利を持つ役職)になり、実権を握りました。

以後、一条天皇の時代には関白はいませんでした。

ところが恋人関係のもつれから伊周と隆家が花山院に矢を射掛けてしまい問題になりました。一条天皇は伊周とその仲間に厳しい処分を決定。

このとき定子は懐妊中のため代理を出て里第二条北宮にいましたが。伊周もそこにいると聞いた一条天皇は大索(おおあなぐり:屋敷の破壊も可能な大規模な家宅捜索)を許可。隆家が捕らえられ、伊周もまもなく捕らえられました。伊周は太宰府に、隆家は出雲に左遷されました。(長徳の変)

それを知った定子は怒って髪を切り落としました。そのため貴族たちの間では「定子は出家した」と考えられました。

しかし一条天皇の定子への寵愛が衰えることはなく、脩子内親王を出産した定子を呼び戻しました。

長保元年(999年)には定子は第一皇子の敦康親王を出産しました。

 

一皇ニ后

敦康親王誕生と同じ月に道長は娘の彰子を入内させました。でも数え12歳。

一条天皇は昼間はまだ雛遊びをする年ごろの彰子の相手をして、夜は定子たち大人の后のもとに通いました。

危機感をもった道長は彰子を強引に中宮にしようと考えました。

一条天皇は詮子や道長に依頼された行成たちから説得をうけ、彰子を中宮にするのを許可。定子が皇后、彰子が中宮になりました。一人の天皇に同時に二人の后がいるのは史上初です。

しかし 長保2年12月16日(1001年1月13日)。皇后定子は難産のため崩御。

彰子が唯一の后になりました。

敦康親王は中宮彰子のもとで育てられることになりました。が実際に面倒をみていたのは定子の妹・御匣殿でした。一条天皇は御匣殿(みくしげどの)を見初めて、御匣殿が懐妊。しかし御匣殿は里帰りしている最中に病死してしまいます。

道長は彰子のもとに一条天皇を通わせるため、才女を女房として彰子に仕えさせ。文化好きな一条天皇の気をひこうとしました。そのなかのひとりが紫式部です。

一条天皇は源氏物語を気に入り彰子のもとに通ったと言います。

寛弘5年(1008年)。中宮彰子が敦成親王(後一条天皇)を出産。

敦成親王誕生のいきさつを前後の様子も含めて記録したのが「紫式部日記」です。

一条天皇は喜び、彰子が静養中の土御門殿に行幸しました。

寛弘6年(1009年)。中宮彰子が敦良親王(後朱雀天皇)を出産。道長の権威は更に上がりました。

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最期

一条天皇は定子の産んだ敦康親王に後を継がせたいと思っていました。

しかし道長は敦成親王に継がせたいと思っていて。このあたりから一条天皇と道長の思惑がズレていきます。

寛弘8年(1011年)5月22日。一条天皇は病になり横に倒れました。

すると道長は一条天皇の譲位、居貞親王の即位、敦成親王の立太子への動きを始めました。

5月26日。道長は占い師を呼んで譲位について占わせたところ「崩御」の結果が出てしまい。道長は泣いてしまいます。帳の隙間からその様子を見た一条天皇はショックを受けて更に病が重くなってしまいました。

その後も一条天皇は病をおして敦康親王の立太子の可能性を重臣と話し合いますが、行成たちは敦康親王の立太子は無理と説得。

6月には皇太子・居貞親王と譲位について話をしましたが、敦康親王については話す前に居貞親王はその場を去ってしまったので話は進みませんでした。

6月13日。一条天皇は譲位。居貞親王が即位(三条天皇)しました(即位式はまだ)。

その後。一条天皇は出家。

6月21日。一条院は重態になりました。彰子や道長、行成が見守る中、辞世の歌を読み、横になりました。

一条天皇の歌は

「御堂関白記」によると
「露の身の 草の宿りに君をおきて 塵を出でぬる ことをこそ思へ」

行成の「権記」によると
「露の身の 風の宿りに君をおきて 塵を出でぬる ことぞ悲しき」

行成は「君」は定子のことだと思ったようですが。このときすでに定子が亡くなっているので置き去りにして心残りなのは「彰子」ということになります。でも一条天皇の定子への想いを知る行成としては定子のことに思えたのでしょう。

さらに定子は生前、自分が死んだら土葬を望み(普通は火葬)。「草葉にある露を我が身と思ってください」と歌を残しています。もしかすると一条天皇のいう君とはやはり生きている彰子ではなく。土葬されて草葉の露になった定子だったのかもしれません。

6月22日。一条院が崩御。享年32歳。

 

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君主としての一条天皇

一般には藤原道長のイメージが強すぎるため、一条天皇も傀儡だった思われることの多いのですが。一条天皇は成長するに連れて自分で政治をしようという想いが強くなり。

道長も一条天皇とは衝突することなく共同で政治を行いました。

藤原実資や藤原行成等など有能な人材を見出して要職につけたり。

道長とともに「長保元年令」を制定。公家社会の様々なルールを決めました。長保元年令は後の時代の公家社会にも強い影響を与えています。

 

文化

一条天皇の時代には藤原道隆の娘・皇后定子には清少納言たちが仕え。藤原道長の娘・中宮彰子には紫式部・和泉式部・赤染衛門たちが仕えました。才能のある女性により女流文学が栄えました。

一条天皇自信も文芸や音楽に強い興味を持っていたため。自分で詩造ったり、笛を吹いたりしています。

 

ドラマ

 

光る君へ 2024年、NHK大河ドラマ、演:塩野瑛久

 

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