花山天皇・藤原兼家によって退位させられた自由奔放な天皇

天皇 4 平安時代

花山天皇は第65代天皇。
10世紀の平安時代に生きた人物です。

名前は師貞(もろさだ)。

円融天皇の譲位により、17歳で即位しました。

しかし藤原兼家の陰謀によりわずか2年で退位させられてしまいます。

花山天皇は逸話の多い天皇ですが、芸術の才能は高かったと言われます。

花山天皇はどのような人物なのか紹介します。

 

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花山天皇

称号:花山天皇(かざんてんのう)
別名:花山院(かざんいん、かさんいん)、花山法皇
諱(いみな):師貞(もろさだ)
生 年:968年11月29日(安和元年10月26日)
没 年:1008年3月17日(寛弘5年2月8日)

在位期間:984年9月24日~986年8月1日

父:冷泉天皇(れいぜいてんのう)
母:藤原懐子(ふじわらの ちかこ)

 

女御:藤原忯子、藤原姚子、藤原諟子、婉子女王

子:昭登親王、清仁親王、深観、覚源

 

守平親王のおいたち

冷泉天皇の時代。

安和元年10月26日(968年11月29日)に誕生。

名前は師貞(もろさだ)

父は冷泉天皇。

母は摂政 藤原伊尹の娘・藤原懐子。

師貞親王は冷泉天皇 の第1皇子。三条天皇の同母兄になります。

安和2年(969年)。叔父の円融天皇が即位。
師貞親王は生後10ヶ月足らずで皇太子になりました。

母・藤原懐子の父・藤原伊尹(ふじわらの これただ)の後押しがありました。

天禄3年(972年)。師貞親王が5歳のとき、外祖父・藤原伊尹が死亡。師貞親王は大きな後ろ盾を失ってしまいます。

母や母の兄弟たちも死亡。後ろ盾のいない師貞親王は周囲の貴族からは相手にされなくなります。

そのため皇太子の師貞親王には即位するまで妃がいませんでした。

親王時代の師貞親王に学問を教えたのが紫式部の父・藤原為時です。

永観2年(984年)。円融天皇が譲位。
師貞親王が即位しました。

 

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花山天皇の時代

花山天皇が即位したときには17歳。

円融天皇の第一皇子・懐仁親王(5歳)が皇太子になりました。

関白はひきつづき藤原賴忠が務めました。

花山天皇を支えたのは数少ない外戚のひとり藤原義懐(ふじわらの よしちか)、乳母子の藤原惟成(ふじわらの これしげ)でした。

また皇太子時代に学問を教えた藤原為時(紫式部の父)を式部丞にしています。

 

義懐たちとともに改革に情熱を燃やすものの

花山天皇を支えたのは叔父の義懐や惟成でした。

花山天皇は義懐の提案する荘園整理令の発布、物価統制令、貨幣流通の活性化、武装禁止令、地方の行政改革など新しい政治を進めようとしました。

ところが義懐は従三位にあがったばかり。惟成は五位蔵人。政治的な力は持っていません。

義懐の案が実行されれれば関白・藤原賴忠や地位の高い公家たちは利権を削られてしまいます。義懐たちのやり方を快く思っていません。

それに懐仁親王の外祖父(母方の祖父)藤原兼家は花山天皇に皇子が生まれる前に早く退位して欲しいと思っていました。

宮中では花山天皇の側近の義懐・惟成派。関白・賴忠派、懐仁親王を支持する兼家派の三つ巴の争いになり。花山天皇の思う政治はできませんでした。

 

花山天皇の寵愛を受ける忯子

このころ花山天皇は藤原為光の娘・藤原忯子(よしこ?、17歳)を大変気に入り女御にしようと思いました。

義懐の正室は忯子の実の姉、つまり義懐は為光の娘婿でした。そこで花山天皇は義懐に為光を説得させました。

花山天皇は味方が少なく。藤原為光を味方にしたいという思惑もあったでしょう。

為光は兼家の異父弟ですが天皇家との外戚関係はなく。兼家たち兄弟に比べると政治的な力はありません。そこで義懐の提案はメリットがあると考え、娘婿の提案を受け入れ娘の忯子を入内させました。

忯子入内の2ヶ月後。権大納言 藤原朝光の娘・藤原姚子(よしこ)。関白・藤原賴忠の娘・藤原諟子(ただこ)が入内しました。

花山天皇は忯子を深く愛し。清涼殿に最も近い弘微殿を与えました。

為光への配慮もあったでしょう。寵愛を受けた忯子はまもなく懐妊します。

花山天皇は桂芳坊で御修法(みしほ:密教の術。安産祈願と思われます)を行いました。しかし桂芳坊は皇后などの後宮で最高クラスのキサキが使用する場所。女御の忯子のために使ったことは公家たちの批判をあびましたが。花山天皇としてはそれだけ忯子のことを思っていたのでしょう。

 

忯子の死と孤立する花山天皇

ところが寛和元年7月18日。忯子は急死してしまいます。

花山天皇は非常に嘆き悲しんで「出家して忯子の供養をしたい」と言い出します。

義懐は出家の話は一時的なものだと考え出家を思いとどまるように説得。関白・賴忠も出家しないように説得していました。

このころ為光は忯子の死の1ヶ月前に妻を亡くしたばかり。重なる身内の不幸に気落ちした為光には花山天皇を支える気力も意志もありません。

花山天皇は義懐を昇進させ参議にしましたが若い義懐に重臣たちをまとめる力はありません。

忯子の死後。式部卿為平親王の娘・婉子女王が入内。それなりに寵愛はうけていたようですが。為平親王に政治的な力はなく、婉子も忯子以上の存在にはなれなかったようです。

花山天皇を支えるのは義懐たちだけ。花山天皇は政治的に孤立。関白・賴忠や右大臣・兼家たちは花山天皇の言うことは利かず。花山天皇は行き詰まってしまいます。

 

花山天皇の退位事件・寛和の変

「大鏡」によると。

このころ蔵人(天皇の秘書)として花山天皇に仕えていた藤原道兼は「もし出家なされるのであれば、私もお供します」と言い出家をそそのかしました。道兼の説得で花山天皇は出家を決意します。

寛和2年(986年)6月23日。道兼はひそかに花山天皇を清涼殿から連れ出し、元慶寺(花山寺)に連れていこうとします。

このとき兼家の命令を受けて清和源氏・源満仲とその配下が道兼の行動に邪魔が入らないように警備しました。

花山天皇は「月が明るく出家するのが恥ずかしい」と言って出発するのをためらいますが、その時、雲が月を隠して「やはり出家する運命であったのだ」と出発します。

さらに内裏を出る直前になって忯子から貰った手紙を部屋に置いたままにしていたのを思い出して取りに戻ろうとしますが、道兼が嘘泣きして花山天皇を思いとどまらせたので天皇は内裏を出ました。

花山天皇の一行が陰陽師・安倍晴明の屋敷の前を通ったとき。中から「帝が退位なさるとの天変があった。もうすでに…式神一人、内裏へ参れ」という声が聞こえます。すると自然に晴明の家の戸が開いて「たったいま当の天皇が家の前を通り過ぎていきました」と答えるものがいた。と書かれています。

兼家は花山天皇が寺へ向かったのを確認すると、長男・藤原道隆や藤原道綱に命じじて三種の神器を皇太子のいる凝華舎に移し、内裏の門を封鎖しました。

花山天皇は道兼とともに元慶寺に到着。天皇は出家して髪を丸めました。それを見届けた道兼は出家前に親の兼家に会いたいと行って寺を出てそのまま戻りませんでした。花山天皇は騙されたことを知ります。

側近の義懐・惟成は天皇がいなくなったのに気がついて探し回り、元慶寺にいるところを見つけましたが。出家した天皇を見て自分たちが負けたことを知り一緒に出家しました。

兼家は懐仁親王を即位させ、一条天皇が誕生。花山天皇は太上天皇になりました。

賴忠は関白を辞職。兼家が摂政になりました。

花山天皇の退位により紫式部の父で式部丞・六位蔵人だった藤原為時は職を失うなど。花山天皇に仕えた人たちにも影響を与えます。

 

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太上天皇・法皇の時代

 

花山上皇は書写山の圓教寺(播磨国)に入りしました。その後、比叡山延暦寺の戒壇院で灌頂受戒し。法皇になりました。

出家後は花山院(かさんのいん、現在の京都御苑の中、宗像神社のあたり)で暮らしました。

「西国三十三所巡礼」中興の祖?

花山法皇には西国三十三所観音巡礼にまつわる伝説があります。

花山法皇が那智山(紀州・和歌山県)に参拝したとき。熊野権現が現れてかつて徳道上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように神託がありました。花山法皇は中山寺で宝印を探し出し。播磨国圓教寺の性空上人や河内国石川寺(叡福寺)の仏眼上人の協力を得て三十三所霊場を巡礼。三十三所霊場を再興したといわれます。

でも三十三所霊場巡りは院政期以降に成立したと考えられているので、この話はあくまでも伝説で史実ではないという意見もあります。

花山院の女性遍歴

花山院は女性への執着が退位のきっかけになったように。もともと女好きでした。

即位前には高御座で女官と性的関係をもったと言われますが、退位させられた花山院を貶めるための作り話の可能性があります。

でも花山院が女好きだったのは確かなようで出家後も様々な女性と関係を持ちました。

出家後。花山法皇は中務(平祐之の娘)に手を出し、清仁親王(きよひとしんのう)を産ませました。同じころ、中務の娘・平平子にも手を出して昭登親王(あきなりしんのう)を産ませました。母子を同時に妾にしたことになります。そのため世間では清仁親王を「親腹御子」、昭登親王を「女腹御子」と呼びました。

清仁親王の子孫は臣籍降下(花山源氏)して白川伯王家を名乗り。神道を司る家柄になりました。

さらには花山法皇の女好きはある事件のきっかけになります。

長徳の変の原因

長徳2年(996年)1月。花山法皇は藤原為光の娘・藤原儼子のもとに通い始めました。。ところがおなじころ、内大臣 藤原伊周が儼子の姉・三の君のもとに通っていました。

伊周は花山法皇が三の君のもとに通っていると勘違い。弟の隆家とともに武士を引き連れて花山法皇を襲撃。衣の袖の部分を矢で射抜かれてしまいます。さらに「百錬抄」では従者の童子を二人殺されたとも言われます。

花山法皇は怖かったのと体面が悪かったで黙っていましたが、藤原道長がこの事件を知り伊周と隆家は左遷。中関白家は没落の原因になります。

この事件を「長徳の変」といいます。

都を震撼させた皇女惨殺事件

花山天皇には4人の娘がいましたが、成長したのは平平子の娘だけでした。

娘は上東門院彰子の女房になっていました。

ところが娘は万寿元年(1024年)。夜の路上で遺体で発見されました。見つかったときにはすでに野犬に食われていたといいます。

皇女が殺害されるという悲惨な事件は公家たちを震え上がらせました。

犯人は法師隆範でした。法師隆範は藤原道雅に命令さたと自白。藤原道雅は長徳の変で没落した藤和伊周の息子です。

ところがある盗賊が自主したので藤原道雅の罪は有耶無耶になりました。

 

逸話

花山院には様々な逸話が伝わります。

天皇に即位したときには王冠が重いと言って脱ぎ捨てた。高御座に女官を連れ込んで情事を行った。清涼殿の壺庭(中庭)で馬を乗り回そうとしたなどの話が伝わります。でもこれは藤原兼家たち政敵によってわざと悪い噂を広められてしまったとも言われます。

確かに自由奔放な人物ですが、それをいいことに「退位させられて当然の愚かなやつだ」という風評被害にあった可能性があります。

芸術・文学・建築の才能は高かったようです。

在位中には宮中で歌合を開催。「拾遺和歌集」の成立にも関わったと言います。

寛弘5年(1008年)2月。花山院の東対で崩御。死因は不明ですが、悪性腫瘍ともいわれます。

紙屋上陵(現在の京都市北区衣笠北高橋町)に葬らました。
享年41。

生前の住居の花山院にちなんで「花山院」と追号されました。(慣習どおりだと花山院院になるはずですが院は2つ重ねません。「かさん」と濁らないのがもともとの読み方ですが、いつのまにか「かざん」と呼ばれるようになりました。

紙屋上陵(京都市北区衣笠北高橋町)に葬られました。

 

ドラマ

大河ドラマ「光る君へ」2024年NHK 演:本郷奏多

 

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