藤原 兼子(ふじわらの かねこ)は平安時代末期から鎌倉時代前期の女官。
後鳥羽天皇の乳母(めのと)になり、後鳥羽天皇を支えた人物です。
通称は卿局(きょうのつぼね)。位があがるとともに卿典侍、卿三位、卿二位とも言われました。
姉の藤原範子も後鳥羽天皇の乳母です。
後鳥羽上皇が特に信頼する人物で、上皇へのとりつぎは兼子が行っていました。そのため兼子は朝廷内で大きな影響力をもちました。
鎌倉の北条政子とも親しくして朝廷と鎌倉の間をとりもちました。
ところが承久の乱で後鳥羽上皇が配流になり。兼子も力を失います。
卿局・藤原兼子とはどのような人物だったのか紹介します。
卿局・藤原兼子 とは
名 前:藤原 兼子(ふじわらの かねこ)
通 称:卿局(きょうのつぼね)卿三位、卿二位ともいいます。
生 年:久寿2年(1155年)
没 年:寛喜元年8月16日(1229年9月5日)
享 年:75
父:藤原範兼(ふじわらの のりかね)
養父:藤原 範季(ふじわらの のりすえ)
母:?
姉:藤原範子(ふじわらの のりこ)
夫:藤原宗頼(ふじわらの むねより)
再婚:藤原頼実(ふじわらの よりざね)
子:なし
平安時代末期の久寿2年(1155年)に生まれました。
父は刑部卿・藤原範兼(ふじわらの のりかね)
藤原といっても摂政関白になって大きな力をもっていた藤原北家と違って、政治的にあまり力のない藤原南家です。
兼子の家は代々学問の家柄でした。兼子の父・藤原範兼も大学頭(大学の長官)、東宮学士(皇太子に学問を教える係)、式部少輔(文部省次官みたいなもの)でした。
父の藤原範兼はたまたま院政期になって摂関家の力が弱まったので、刑部卿に出世しました。
藤原範兼は学者の家柄らしく漢文が専門でしたが、和歌も得意でした。鴨長明も「範兼の家の若いほど優雅なものは近頃はみかけない」と書き残しています。
父が「刑部卿」だったので兼子は「卿局」と呼ばれます。
永万元年(1165年)。兼子が11歳のとき、父・藤原範兼が死亡。
叔父の範季に育てられました。範季は範兼の養子になって家を継いだので、形の上では範季は義兄になります。藤原範季は後白河法皇の側近でした。
後鳥羽天皇の乳母になる
治承4年(1180年)高倉天皇の第四皇子・尊成親王(後の後鳥羽天皇)が誕生。
養父の藤原範季は尊成親王の養育を任されました。
兼子は姉の範子とともに尊成親王の乳母になりました。
姉の範子は能円と結婚して娘・在子が生まれていました。
兼子は独身だったのでお乳はあげていません。お世話係としての乳母です。
能円・範子夫婦と兼子が尊成親王を育てました。このときは育てている子供が天皇になるとは思っていなかったでしょう。
藤原定家の姉妹とも親しい
和歌の名家といえば同じ藤原南家の藤原定家が有名です。兼子は藤原定家や定家の姉・健御前とも親しくしていました。
寿永2年(1183年)。健御前は建春門院(後白河院の后)に仕えていましたが、建春門院が亡くなったあとは八条院(鳥羽上皇と美福門院の娘)に仕えることになりました。八条院にはすでに健御前の姉・坊門殿が仕えていて、八条院の母親代わりになっていました。
ところが健御前は新しく仕える八条院が療養中のため会うことができず、機嫌を損ねて部屋に引きこもっていました。
兼子は心配して健御前をお見舞いに行きましたが会えません。すると坊門殿が笑って「この人は風邪と言ってますけけれど、八条院に会うまで誰にも会わないとふて寝しているのですよ」と言いいました。
というやりとりが健御前の日記に載っています。
兼子と定家の姉妹は仲がよく、宮仕えするようになっても会っていたようです。
こういう他愛のないやりがあった年に大事件が起きました。
後鳥羽天皇誕生の舞台裏に同席
寿永2年(1183年)7月。平家は源義仲との戦いに負け、安徳天皇とともに都落ちしました。
8月。都に天皇がいなくなったので、新しい天皇を決めることにしました。
候補になったのは故高倉天皇の皇子、三宮・惟明親王と四宮・尊成親王でした。
後白河法皇は異母妹の八条院の屋敷を訪れました。八条院が後白河法皇に「御位(天皇の位)はどうなるのでしょう?」と聞くと後白河法皇は「高倉の四の宮」と答えました。後白河法皇の頭の中にはすでに四宮・尊成親王が次の天皇に決まっていたようです。
法皇と八条院との会話の席には、摂政・藤原基通と兼子が同席していました。
健御前は理由を作ってこの場に居座って話を聞いて日記に書いています。でも健御前は下がるように言われました。
このとき兼子は後白河法皇や八条院からも信頼されて重要な会話の場にも同席を許される立場でした。
翌日。四宮・尊成親王が新しい天皇に決まりました。後鳥羽天皇の誕生です。
後鳥羽天皇の時代
自分が育てた皇子が天皇になりました。
範子・兼子姉妹にも脚光が集まります。
この後、独身になっていた姉・範子と土御門通親が結婚しました。土御門通親は範子の育てた後鳥羽天皇が即位して、この一族が注目されるとさっそく近づいてきたのです。
兄の藤原範光は後鳥羽天皇の近習として仕え。後鳥羽天皇の信頼を得ていきます。
建久3年(1192年)。院政を行っていた後白河法皇が崩御。
このあと関白・藤原兼実と土御門通親・丹波局たちが対立。藤原兼実は失脚しました。
土御門通親は朝廷の中で力を持ちます。通親は大きな力をもっていて、上皇に報告せずに独断で決めたりしていました。
このころの兼子はとくに表立った活動はしていません。でも後鳥羽天皇のそばに仕え、天皇に影響を与えられる人物でした。
正治元年(1199年)。45歳のとき典侍になりました。
このころまで独身だった兼子は権中納言・藤原宗頼と結婚しました。
かつて兼子は坊門信清の娘・西御方を養女にしていました。西御方は後鳥羽天皇の女房になり長仁親王を生みました。兼子は頼仁親王も育てました。
通親が擁する土御門天皇より、守成親王(のちの順徳天皇)を後鳥羽上皇が寵愛した事から、守成を後見する範光・兼子兄妹と通親の間で対立も起こっている。
正治2(1200年)。姉の範子が死去。
建仁2年(1202年)。朝廷で力をもっていた土御門通親が死去。
後鳥羽上皇院政の時代
後鳥羽上皇は本格的に自ら政治を行うようになりました。兼子は兄の範光とともに側近として仕えました。兼子は「権門女房」とも呼ばれ、宮中の正月の儀式を仕切ったりと宮中で大きな力を持つようになりました。
後鳥羽上皇も兼子の言葉はよく聞いたといいます。このころになると姉の範子もなく、兼子は後鳥羽上皇に影響のある数少ない人物になっていました。
兼子は後鳥羽上皇の性格をよく知っていました。兼子は臣下から上皇への取次役をしていました。後鳥羽上皇の機嫌を悪くするような奏上は兼子は取り次ぎませんでした。逆に兼子が取り次いだ兼子はよく通りました。
臣下たちはますます兼子を頼るようになり、兼子のもとには取次を願う者たちが贈り物をもってやってきました。そのため兼子は財を溜め込みました。
建仁3年(1203年)。夫の藤原宗頼が死去。
すると兼子と結婚を希望する公家が続出。猛烈なアピールを受けました。
その中から兼子が再婚相手に選んだのは太政大臣・藤原頼実でした。太政大臣といえば聞こえはいいですがこの当時の太政大臣は実権のない名誉職でした。
藤原頼実は兼子の口利きで東宮傅(とうぐうふ)の職を得ました。藤原頼実は前の妻との間にできた娘・麗子を入内させたいと想っていました。麗子は兼子の協力で土御門天皇の中宮になりました。
藤原道家や藤原定家などはこうした風潮を批判していましたが。自分が官職につくときには結局は兼子の助けを借りて、官職にありつくと感涙して兼子に感謝していました。
元久元年(1204年)。院の御所が新造され、その西北方に兼子も屋敷を建てました。そのやしきで夫の藤原頼実と暮らしました。
源実朝と坊門信子の結婚を後押し
このころ鎌倉では3代将軍・源実朝(13歳)の結婚相手を決めることになりました。
足利義兼の娘が候補になっていましたが、最終的に先の大納言・坊門信清の娘・信子(13)に決まりました。
坊門信子は兼子の養女・西御方の妹です。
元久元年(1204年)。鎌倉から迎えの武者がやってきて信子の嫁入り行列は鎌倉に向かいました。このとき信子一行は兼子の屋敷から出発しています。このとき豪華な嫁入り行列を見ようと都の人々が集まりました。
後鳥羽上皇は朝廷と幕府の融和を目指していました。兼子もそのために信子と実朝の結婚に力をいれていたようです。
江戸時代。公武合体のため和宮と徳川家茂は結婚しました。そのときの様子に似ています。
北条政子との交流
建保6年(1218年)。北条政子は熊野詣にでかけました。その途中で京都に立ち寄り、兼子に会いました。
鎌倉幕府将軍・源実朝には子供がいません。そこで北条政子は次の鎌倉幕府の将軍を誰にするか兼子と相談しました。兼子は養育していた頼仁親王を次の将軍に提案。政子も賛成しました。さらに兼子の斡旋で北条政子は従三位の位を与えられました。出家した女性としては異例です。
の従三位に叙せられた。兼子は養育していた頼仁親王を次期将軍に押し、政子も実朝の妻坊門信子の甥である親王を実朝の後継者とする案に賛成し、二人の間で約束が交わされた。この年の11月。政子は兼子のあとおしで従二位になりました。
承久の乱で運命が変わる
ところが承久元年(1219年)。源実朝が暗殺されました。
北条政子は後鳥羽上皇の皇子・雅成親王か頼仁親王を次の将軍にするように使者を送ってきました。兼子も政子のために力になろうとしましたが。後鳥羽上皇は親王の派遣を拒否します。最終的には摂関家の息子・藤原頼経が次期将軍として鎌倉に向かいました。
上皇は頼りにしていた実朝を殺され、鎌倉方を信用できなくなりました。いずれ北条一族とその仲間とは戦いになり、そうなると皇子とは敵になってしまいます。鎌倉と親しい兼子も後鳥羽上皇から遠ざけられました。
兼子の知らないところで後鳥羽上皇の統幕の準備が進んでいきます。
承久3年(1221年)。後鳥羽上皇は北条義時の討伐を名目に挙兵。ところが上皇側は幕府軍に敗北しました。
後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡島に、土御門天皇は自ら望んで土佐に流されました。上皇側についていた兼子の従兄弟・範茂は処刑されました。
兼子はその後も都に留まり、8年間生きました。
嘉禄元年(1225年)。夫の頼実が死去(71)。
嘉禄3年(1227年)。兼子が蓄財していた中山の倉に盗賊団が押し入り、警備の者を殺して倉の中の物を盗んでいきました。
このころ兼子は比叡山の山僧と所領のことで揉めていました。兼子も弱っていました。
寛喜元年(1229年)夏ごろ。頭部に腫れ物がでました。腫れ物は治らず8月16日に死去。享年75歳。
残された財産は遺言通り修明門院・陰明門院・綾小路宮・坊門局・大宮殿・権中納言実基が相続しました。そして後鳥羽上皇とともに隠岐に行っている西御方にも2つの荘園を残しています。
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