後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は日本の第82代天皇です。
上皇になってからは「治天の君」として大きな影響力を持ちました。
当初は鎌倉幕府とも良好な関係を気づいていたものの。源実朝の死後、鎌倉との関係は悪化。
「北条義時討伐」を掲げて挙兵したものの鎌倉方に敗北。隠岐の島に流罪になりました。
院政を始めるまでの後鳥羽天皇はこちらで紹介しました。
この記事では院政を始めてから最期までを紹介します。
後鳥羽上皇の院政と鎌倉幕府、そして源実朝暗殺までの流れ
後鳥羽上皇の院政本格化と朝廷の統合
正治2年(1200年)、後鳥羽上皇の第三皇子・守成親王(後の順徳天皇)が皇太弟となり、**建仁2年(1202年)**には有力な対抗勢力であった源通親が死去。これにより、後鳥羽上皇の院政は本格化しました。
上皇は朝廷のリストラを行い、殿上人を整理することで、朝廷を掌握。さらに、「西面の武士」と呼ばれる新たな武士団を結成し、従来の「北面の武士」とともに皇室の警護を固めました。
後鳥羽上皇と源実朝、良好な関係の構築
鎌倉幕府の将軍・源実朝とは良好な関係を築き、建仁3年(1203年)の比企能員の乱後には、頼家の弟・千幡に「実朝」の名を与え将軍に就任させました。
実朝は京風文化を好み後鳥羽上皇を尊敬していたため両者の関係は良好でした。
後鳥羽上皇は実朝の正室に自らの側近である坊門信清の娘を迎えるなど両家の関係を深めました。また、京都守護の平賀朝雅を重用し殿上人に任じるなど鎌倉幕府との連携を強化しました。
幕府内部の動乱と平賀朝雅の死
しかし元久2年(1205年)には幕府内で牧氏事件が起こり北条時政が失脚。
時政の命令を受けた御家人によって後鳥羽上皇が重用していた平賀朝雅が討たれるという事件が発生しました。
順徳天皇の即位と源実朝の暗殺
承元4年(1210年)には、後鳥羽上皇の強い意向により、順徳天皇が即位。建保6年(1218年)頃には、源実朝の後継問題が浮上し、後鳥羽上皇の子を次の将軍にすることで話がまとまりかけていました。
しかし、その直後の建保7年(1219年)に、源実朝が暗殺されるという悲劇が起こりました。
後鳥羽上皇と鎌倉幕府の対立激化と承久の乱へ
後鳥羽上皇と鎌倉幕府は次第に対立を深めていきました。
親王将軍問題と交渉の難航
鎌倉幕府は後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えたいと考えていましたが、上皇はこれを拒否。代わりに、寵姫・亀菊の荘園の地頭を廃止するよう要求しました。しかし幕府はこれを拒否し交渉は難航。最終的に摂関家から将軍を出すことで合意。
承久元年(1219年)に九条道家の子・三寅(後の藤原頼経)が次期将軍として派遣されました。
内裏炎上事件と全国への課税
同年、内裏守護の源頼茂が上皇側の武士に襲われ内裏が炎上する事件が発生。
この事件は両者の対立をさらに深めるきっかけとなりました。上皇はこの事件を機に全国の公家・武家・寺社に課税を行いましたが、多くの反対に遭い幕府との関係は悪化の一途を辿りました。
武力討伐の決意と承久の乱へ
こうした状況下、後鳥羽上皇はついに北条義時を武力で討つことを決意します。
息子の順徳天皇もこの計画に賛同し、承久3年(1221年)順徳天皇は懐成親王(仲恭天皇)に譲位。自らも挙兵計画に参加しました。
承久の乱への布石
挙兵に先立ち上皇は全国の寺社に北条義時調伏のための加持祈祷を行わせ、世論を味方につける工作を行いました。
承久の乱:後鳥羽上皇の挙兵と鎌倉幕府との激突
挙兵と初期の展開
承久3年(1221年)、後鳥羽上皇は、北条義時を討つべく全国に院宣を発し挙兵しました。
上皇は自らの勢力を過信し、義時が孤立無援になると楽観視していました。しかし北条政子の説得により鎌倉武士は結束し上皇軍に対抗する決意を固めました。
鎌倉幕府軍の反撃と各地での敗北
鎌倉幕府軍は予想をはるかに上回る勢いで京都へと進軍を開始しました。上皇軍は美濃や尾張といった地で幕府軍と交戦しましたが次々と敗北を喫しました。
宇治川での激戦と上皇の敗北
追い詰められた上皇は宇治川を最後の防塁とし幕府軍を迎撃しました。激しい戦闘が繰り広げられましたが最終的に幕府軍が勝利。京都を占領しました。上皇は降伏。この戦乱は幕府の勝利に終わりました。
承久の乱後の動向と鎌倉幕府の全国支配
流罪と処分
承久の乱に敗れた後鳥羽上皇は隠岐の島へ、順徳上皇は佐渡ヶ島へとそれぞれ流罪となりました。他の皇族や、挙兵に加わった貴族・武士たちも各地に流罪となり、所領は没収されました。挙兵に加わらなかった土御門上皇も自らの意思で土佐国へ、のちに阿波国へと移されました。
皇位継承への介入と武家政権の確立
仲恭天皇は廃され、後堀河天皇が即位。この出来事は、武家政権が皇位の継承に深く関与するようになったことを示す象徴的な出来事となりました。また、後鳥羽上皇が管理していた皇族の領地や、挙兵に加わった者たちの所領は没収され、鎌倉幕府の御家人に分配されました。
西日本への勢力拡大と全国政権の誕生
特に、西日本各地には鎌倉幕府が選んだ守護が配置され、幕府の支配が確立されました。これにより、これまで東国中心であった鎌倉幕府の勢力は、全国へと拡大し、名実ともに全国政権としての地位を確立しました。
承久の乱の意義
承久の乱は鎌倉幕府が武力によって朝廷を圧倒。武家政権としての地位を確固たるものにした重要な事件です。この乱の結果、武家政権が日本の政治の中心となり、朝廷は幕府に対して従属的な立場に追い込まれました。
承久の乱に敗れ隠岐へ流された後鳥羽上皇の生涯とその後
出家と隠岐への流罪
承久の乱に敗れた後鳥羽上皇は、出家して法皇となり、隠岐の島へと流されました。厳しい気候の中、側近たちと共に静かに余生を過ごしました。
還京を許されず、隠岐で生涯を閉じる
その後、摂政・九条道家が後鳥羽上皇と順徳上皇の還京を提案しましたが、鎌倉幕府はこれを認めませんでした。
上皇は隠岐の地で病に倒れ、延応元年(1239年)に60歳で生涯を閉じました。
遺体は現地で火葬され、その塚は現在も島根県隠岐郡海士町に「鳥羽天皇御火葬塚」として残っています。
後世における後鳥羽上皇
明治時代に入り京都の大原に「大原陵」が造営され、宮内庁指定の御陵となりました。
また、後鳥羽上皇に仕えていた水無瀬信成・親成親子は上皇の遺言により離宮があった水無瀬に御影堂を建て後鳥羽上皇を祀りました。
これが現在の水無瀬神宮です。
まとめ:
後鳥羽上皇は北条義時の打倒を目指して挙兵しました。しかし武士を味方につけた鎌倉幕府軍によって。上皇は敗れ隠岐に流されました。
この乱は鎌倉幕府の武家政権としての地位を確固たるものとし、朝廷は幕府に従属する立場となりました。
後鳥羽上皇は出家して法皇となり、隠岐で生涯を閉じました。
その生涯は鎌倉幕府の強大化と、皇位の座から引きずり落とされた一人の人物の悲劇的な物語として後世に語り継がれています。
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