藤原道兼(ふじわらの みちかね)は平安時代 9世紀ごろの貴族。
藤原道兼は、平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の三男です。同母の弟妹には詮子、道長らがいます。
道兼は父・藤原兼家の命を受けて花山天皇を元慶寺に連れ出して天皇と共に出家すると偽り、天皇を出家させました。幼い懐仁親王(一条天皇)が即位し父・藤原兼家が摂政になり、道兼も出世しています。
父・藤原兼家の死後は長兄・藤原道隆が就任。道隆の死後は道兼が関白になりましたが。すぐに病に倒れました。そのため「七日関白」とも呼ばれています。
藤原道兼はどのような人物だったのか紹介します。
藤原道兼
名前:藤原道兼(ふじわらの みちかね)
生 年:天徳元年(957年)
没 年:寛仁元年6月1日(1017年6月27日)
弟:藤原道隆、藤原道長
おいたち
藤原道兼(ふじわらの みちかね)は、天徳元年(957年)に藤原兼家の三男として生まれました。
母は時姫で、彼女は藤原中正の娘にあたります。
道兼は兄弟に藤原道隆や藤原道長を持ち、藤原家の有力な人物として成長しました。
花山天皇退位事件・寛和の変
永観2年(984年)8月。花山天皇が即位。
道兼は蔵人左少弁に任じられ、宮廷で仕えるようになります。
花山天皇は兼家の亡兄・伊尹の娘・懐子を母としており、伊尹の子の権中納言・義懐が天皇を補佐して朝政を執りました。このため兼家は懐仁親王の早期の即位を望んでいました。
花山天皇は非常に感情的な性格で、特に寵愛していた女御・藤原忯子(ふじわらのしし)が亡くなった際に、深い悲しみに暮れ、心が乱れてしまいました。
道兼は仏教の教えを説き出家を勧めます。さらに元慶寺(花山寺)の僧侶・厳久とも協力して天皇を説得し、ついには天皇自身も退位を決意します。
寛和2年(986年)6月23日の深夜、道兼は花山天皇を密かに内裏から連れ出し、元慶寺まで案内しました。天皇は厳久から戒を受け、剃髪し正式に出家を果たします。しかし、その後、道兼は「父に一目会わせた後に戻ってきます」と告げて寺を去り、戻ることはありませんでした。天皇は騙されたことに気付きましたが、すでに手遅れでした。道兼の父・兼家と兄・道隆は、すでに懐仁親王の即位準備を進めていたのです。
翌朝、花山天皇を補佐していた藤原義懐や藤原惟成らが元慶寺に駆けつけましたが、すでに出家してしまった天皇を前に絶望し、彼らも出家しました。
一条天皇の時代
幼い懐仁親王(一条天皇)が即位し、外祖父の兼家は摂政に任じられました。
兼家の息子らも昇進。功労者の道兼は参議となり。その後、従三位権中納言、正三位に昇格。
永延元年(987年)には従二位。
永祚2年(989年)には正二位・権大納言になりました。
兄・道隆が関白に
正暦元年(990年)。藤原兼家が病気になり死去。
後任の関白には長兄・道隆がなりました。
「大鏡」によると。道兼は「自分は父に功があったのだから、関白を継ぐべきだ」と望んでいたのに道隆が後継に選ばれたのを憎んで、父の喪中にもかかわらず客を集めて遊興に耽ったと言います。
道隆の政権下では内大臣、右大臣を務めました。
関白になる
長徳元年(995年)。関白 藤原道隆が重病になり。道隆は後継の関白に嫡男の内大臣 伊周を希望しましたが実現せず。4月10日に死去しました。
4月27日。道兼は関白になりました。
ところが道兼はすぐに病気になってしまいます。
道兼が関白在任中に開催した陣定(じんのさだめ=大臣以下の者が集まって話し合う会議)は1度だけ。
5月8日には亡くなってしまいます。享年35。
七日関白
道兼は関白になって短期間で亡くなったので世間では「七日関白」と呼ばれました。
でも在任期間は7日ではありません。一説によは5月2日に奏慶(任命を受けたお礼の挨拶)してから7日目に亡くなったからともいいますし。単に短い期間という意味なのかもしれません。
人物像
道兼の人物像は『大鏡』と『栄花物語』で異なった評価がされています。
『大鏡』では冷酷で人々から恐れられたと伝えられ、兄の道隆に対しても批判的な態度を示していたとされています。一方、『栄花物語』では、道兼は落ち着いていて男らしい人物と評価されています。
いずれにせよ、道兼は藤原家の中で重要な役割を果たし、波乱に満ちた生涯と短い関白在任期間が後世に語り継がれることとなりました。
映像作品
TVドラマ
NHK大河ドラマ「光る君へ」 2024年、演:玉置玲央
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