允恭天皇とはどんな人?

古代 1 古代

反正天皇は第19代の天皇。
5世紀に存在した大和の大王です。

古代中国の歴史書「宋書」「梁書」にある倭の五王の「済」ではないかともいわれています。

允恭天皇とはどんな人だったのでしょうか。

允恭天皇という諡号は奈良時代に付けられたものです。また允恭天皇が生きている時代には「天皇」の呼び方はなく「大王:おおきみ」と呼ばれていました。

ですがこの記事ではわかりやすくするため「允恭天皇」と書きます。

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允恭天皇とは

 

名 前:雄朝津間稚子(おあさづまわくご)?
諡 号:允恭天皇
和風諡号:雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)
生 年:
没 年:允恭天皇5年
    
在位期間:允恭天皇元年~允恭天皇5年
都:遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)
 奈良県高市郡明日香村
 

家族

父:仁徳天皇(にんとくてんのう) 
母:磐之媛命(いわのひめ の みこと)

皇后:忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)
 長男 木梨軽皇子(きなしのかるのみこ) 皇太子
 長女 名形大娘皇女(ながたのおおいらつめのみこ)
 次男 境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)
 三男 穴穂皇子(あなほのみこ、安康天皇)
 次女 軽大娘皇女(かるのおおいらつめのみこ)
 四男 八釣白彦皇子(やつりのしらひこのみこ)
 五男 大泊瀬稚武皇子(おおはつせわかたけるのみこ、雄略天皇)
 三女 但馬橘大娘皇女(たじまのたちばなのおおいらつめのみこ)
 四女 酒見皇女(さかみのひめみこ)

妃:弟媛(おとひめ、忍坂大中姫の妹)

 

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允恭天皇の生涯

おいたち

父親は16代仁徳天皇(にんとくてんのう)。
母親は葛城襲津彦(かつらぎ の そつひこ)の娘・磐之媛命(いわのひめ の みこと)。古代豪族の名門・葛城氏の出身です。

兄弟には同母兄の履中天皇、住吉仲皇子、反正天皇がいます。

 天皇になるのを拒否

允恭天皇は子供の頃から謙虚な人だったといわれます。天皇になる前、歳をとってから病気になり動作も鈍くなっていました。

反正天皇5年1月。兄の反正天皇が死去。臣下たちが相談して雄朝津間稚子皇子を次の天皇にしようとしました。

ところが皇子は「病気になっている」という理由で断りました。「2人の兄は私を愚かだと言って相手にしなかった。そのような愚か者に務まるだろうか」とも言っているので兄との仲はあまり良くなかったようです。

臣下たちは何度も皇位につくようにお願いしましたが皇子は認めません。

反正元年12月。雄朝津間稚子皇子の妻・忍坂大中姫は臣下たちが気の毒になって皇子に皇位につくように進言しました。それでも皇子は断ります。忍坂大中姫は返事をもらろうと待ち続けました。しかしその日は水も凍るような寒い日だったので凍死しそうになりました。その様子に気がついた皇子は観念して天皇になりました。この年、壬子。

妻の説得で天皇になるという珍しい例です。

根に持つ皇后

年が明けて允恭天皇2年2月。妻の忍坂大中姫が皇后になりました。皇后にはたくさんの子がいます。

皇后がまだ允恭天皇と結婚する前のことです。
忍坂大中姫は応神天皇の第二王子・稚渟毛二派皇子の娘でした。
若い頃、姫は一人で菜園のある庭で遊んでいました。そこに闘鶏国造(つげのくにみやっこ)が家のそばの道を通りました。馬に乗って垣根越しに「あんなに菜園をつくれるものかね」とあざ笑うように言ってさらに「刀自(宮中や貴族の家で家事をする女性)、そこのノビル(ネギの一種)を一本くれ」と言いました。

姫はノビルを取って馬に乗っている男にやりました。しかし姫は、その男は無礼なやつだと思ってずっと覚えていました。

そこで皇后になった忍坂大中姫はそのときの闘鶏国造を呼び出して処罰しようとしました。その男が誤ったので許しましたがその男は以後、「稲置(いなき)」と名乗ることになりました。

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允恭天皇 在位期間中のできごと

新羅から名医を呼ぶ

3年8月。長年の病を直すため。新羅に使いをおくって医者を呼び寄せました。秋には金波鎮漢紀武(こんはちんかんきむ)という名の医者がやってきました。彼は薬に詳しい医者でした。しばらく治療を受けると病は治りました。天皇は大変喜んで厚くお礼をして国に帰しました。

氏姓制度改革を行う

4年9月。豪族たちが氏姓を偽っていると思った允恭天皇は氏姓の乱れをなくそうと考えました。そこで飛鳥の甘樫丘にて盟神探湯(くがたち)を行いました。これは熱いお湯に手を入れて無実だったら怪我はしないが、嘘を言ったら火傷するというものです。この方法で嘘を見破ることができると信じられ、江戸時代になっても行う人もいました。

玉田宿禰を処刑

5年7月。玉田宿禰(葛城襲津彦の孫)に命じて反正天皇の遺骸の番を命じました。まだ御陵が完成していなかったので仮の安置場所(殯宮)に置いていたのです。

その後、地震が置きました。允恭天皇は気になったので使者を派遣して殯宮の様子を見させましたが。玉田宿禰は殯宮にはいずに別のところで宴会をしていました。バレるのを怖れた玉田宿禰は使者に賄賂を贈ったうえに帰りに襲って殺害しました。その話を聞いた天皇は玉田宿禰を呼び出しましたが玉田宿禰は逃げました。そこで兵を送って殺害しました。

11月。御陵が完成したので反正天皇を埋葬しました。

美女・衣通郎姫(そととおしのいつらめ)を妃にするが

これは古事記にはなく日本書紀にのみある話です。

7年12月。天皇は美人との評判の高い衣通郎姫を呼び寄せることにしました。

衣通郎姫とは「服を着ていても服を通して美しさが外に伝わる姫」という意味のあだ名です。

衣通郎姫が皇后の妹でした。本当の名前は弟媛です。皇后は心中穏やかではありません。衣通郎姫も姉が怒るのではないかとなかなか来ませんでした。そこで允恭天皇は藤原(奈良県橿原市)に家を建ててそこに住まわせました。

大初瀬皇子(雄略天皇)が産まれたとき。天皇は藤原を訪れました。自分の出産中に夫が妹の所に行ったことを知った皇后は激怒。産屋に火を付けて自殺しようとしました。天皇は謝って皇后のご機嫌をとりなんとか収まりました。

しかしその後も允恭天皇は藤原通いを止められません。衣通郎姫は姉のことが心配になっていました。

8年2月。そこで茅渟(ちぬ、大阪府泉佐野市)に屋敷を建てそこに移らせました。天皇は猟に出かけると言っては衣通郎姫のもとに通いました。

しかし10年。皇后に「私は妬んでいませんが、百姓の苦しみになります。数を減らすようにしてください」と怒られました。以後は茅渟宮に行く回数が減ります。

淡路の大真珠

14年。淡路島に行ったとき。獣はたくさんいるのに全く獲物が得られません。そこで占いをすると島の神が怒っていることがわかりました。明石の海に大真珠があるのでそれを捧げると怒りが解けるとお告げがあります。そこで島の海人に命じて採らせますがだれも大真珠のあるところまで潜れません。阿波の長邑の男狭磯(おさし)という男が光っている大きなアワビを見つけて取ってきます。大きなアワビを抱いて上がってきましたが、自身は力尽きて海に沈み死亡しました。縄を垂らして海の深さを諮ると60尋(約90m)もあったそうです。

大きなアワビからは桃ほどの真珠が採れたので島の神に捧げました。すると狩りで獲物がえられました。また男狭磯のために墓を作って葬りました。

木梨軽皇子

24年6月。皇太子の木梨軽皇子(きなしかるのみこ)と軽大娘皇女(かるのおおいつらめのひめみこ)は母が同じ兄妹。2人は美男美女でした。ところが兄妹の近親相姦が発覚。この時代異母兄妹の結婚は許されていましたが、同母兄妹の結婚は罪になりました。

それを知った天皇は木梨軽皇子は皇太子なので処分が難しいので、軽大娘皇女を伊予(愛媛県)の道後温泉に送りました。

しかしこの事件があってからは木梨軽皇子は人々の信頼を失います。

古事記では木梨軽皇子が伊予に流刑になったあと軽大娘皇女が後をおって伊予に向かいます。

42年1月。崩御。
新羅王は允恭天皇の死を悲しんで使節を送ってきました。

享年78歳。

好色なエピソードが印象的な允恭天皇ですが、在位期間は42年と歴代天皇の中でもトップクラスの長さです。

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後継者争い

日本書紀では允恭天皇の死後。木梨軽皇子と穴穂皇子が皇位を争います。
木梨軽皇子は同母妹と近親相姦したので人々の信頼を失い、穴穂皇子が次の天皇にふさわしいと考える人が多かったのです。

木梨軽皇子は捉えられ伊予湯(愛媛県松山市道後温泉)に流されました。

古事記ではその後に軽大娘皇女が後を追って伊予に向かいます。

軽大娘皇女も美しかったので古事記では軽大娘皇女が衣通郎姫とよばれています。 

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反正天皇の陵墓

惠我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)

別名:市野山古墳(いちのやまこふん)
場所:大阪府藤井寺市国府1丁目
前方後円墳
墳丘部分の長さは228m。
5世紀中頃造られたと考えられます。

また次の古墳も允恭天皇陵の候補地になっています。

津堂城山古墳(つどうしろやまこふん)

場所:大阪府藤井寺市津堂
前方後円墳
墳丘部分の長さは208m。
4世紀後半に造られたと考えられます。
古市古墳群の中では初期の古墳です。

 

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