藤原惟規(ふじわらの のぶのり)は平安時代の貴族。
紫式部の兄弟です。
紫式部と惟規の生年がはっきりしないので兄とも弟ともいわれます。
藤原惟規はどのような人物だったのか紹介します。
藤原惟規
名前:藤原惟規(ふじわらの のぶのり)
生 年:天延2年(974年)?
没 年:寛弘8年(1011年)
父:藤原為時
母:藤原為信の娘
兄弟姉妹
女、惟通、定暹、紫式部、藤原信経室
妻:藤原貞仲の娘
子供:藤原貞職
母不明:藤原経任
平安時代の円融天皇の時代。
天延2年(974年)ごろに生まれたと考えられます。
父は藤原為時
藤原北家良門流の一族。
母は藤原為信の娘
藤原為時の家は五位どまりの受領層(国司、方長官を担当する事が多い階級)の中級貴族ですが、祖先には紀貫之たち文人歌人とも交流があり教養の高い家でした。
教育熱心な父親から姉妹の紫式部と比較される
乳の為時は教育熱心な父親でした。
惟規は父から史記(中国の歴史書、全て漢文で書かれています)を教わっていました。でも惟規はよく覚えてなかったり、忘れたりしていることがありました。妹の紫式部はそばにいて一緒に聞いていましたが、惟規が答えられない部分を彼女が教えてくれました。
その様子を見た父・為時は
「ああ、残念なのはこの子を男の子に生まれさせなかったことだ。不幸なことだ」と嘆いたといいます。
そんなエピソードが有名なので惟規はあまり優秀ではない印象を持たれがちですが、無能だったわけではありません。
惟規は大学寮(役人を育てる国立学校)に入って「文章生」になりました。
役人生活
長保6年(1004年)正月に少内記を務めました。
3月には位記の作成を命じられています。
その後、兵部丞、六位蔵人、式部丞を務めました。
紫式部の式部は兄の役職「式部丞」から付けられているとも言われます。
ほぼ父と同じように出世しています。
内親王に仕える侍女との恋
「十訓抄」によると惟規は大斎院(村上天皇の娘・選子内親王)の宮に仕える侍女に恋をして通い始めました。ところが門番に名を聞かれて答えなかったので締め出されてしまいます。
そこで惟規は
「神垣は木丸殿にあらねども、名宣りをせねは人咎めけり」と和歌を詠んで侍女に送りました。大斎院はこの歌を見て面白いと思い、侍女との恋を許しました。
惟規の最期
寛弘8年(1011年)に従五位下になりました。
越後守になった老父・為時とともに越後(新潟県)に赴任。
ところが越後で重病になりました。
病は回復せず、残り命はわずかと思えるほど悪くなりました。
惟規は信心深い人ではなかったようです。そこで父・為時は信仰心をもてば成仏できると思い、僧侶を呼んで惟規に仏門に入らせようとしました。
僧侶は仏を信じなければ中有(ちゅうう)に迷うと言いました。
惟規は中有とはどんなところかと聞くと僧侶は「その野には紅葉が嵐に散り、知る人おなくて心細く迷い歩くところである」と言いました。
ところが惟規は「その野は紅葉が嵐に散り、尾花が風になびき、松虫や鈴虫が鳴くところであろう。それさえあれば中有に迷うても苦しくはない」と言い、僧侶の勧める念仏を拒否しました。僧侶はしかたなく帰りました。
当時は貴族社会で浄土が信じられていて念仏が流行っていたころでしたが。惟規は念仏や仏教には興味はなかったようです。そのかわり自然の草花や虫の鳴き声を愛する風流なところがあったようです。
その後、惟規は辞世の句を書きました。
「都にも恋しき人のあまたあれば、猶ほの度は生かんとぞ思(ふ)」
しかし惟規は最後の「ふ」を書く前に息絶えてしまい未完成におわってしまいます。父の惟規は文字の足りない辞世の句を都に持ち帰りました。
紫式部は兄の死を嘆き悲しみ。
「いづ方の雲路とお聞かば尋ねまし、列離れけん雁の行方を」という歌を詠みました。
姉・紫式部との比較で学問が苦手のイメージをもたれがちな藤原惟規ですが。勅撰和歌集に10首が入選。「藤原惟規集」という和歌の詩集も出しています。意外と詩の才能があったようです。天才的な記憶力と文章の才能をもつ紫式部と比較されると分が悪いかもしれません。
ただし、儀式のときに酔っ払ってしまったり。忘れて失敗したこともあります。有能な役人とはいえなかったのかもしれません。
映像作品
映画「千年の恋 ひかる源氏物語」 2001年、演:段田安則
NHK大河ドラマ「光る君へ」 2024年、演:高杉真宙
ドラマでは紫式部の弟の設定。
劇中の幼名は太郎。
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