公暁(こうぎょう)は鎌倉幕府3代将軍・源実朝を暗殺した人物。
鎌倉幕府2代将軍・源頼家の息子です。
源頼家が無事なら公暁はそのあとを継いだかもしれない人物。そのため源実朝には恨みを持っていたといいます。
公暁が源実朝を暗殺したのは確かですが。昔から黒幕がいたのではないかとも言われます。
公暁とはどんな人だったのでしょうか。
公暁を操る黒幕はいたのでしょうか?
公暁 とは
幼名:善哉(ぜんざい)
生 年:正治2年(1200年)
没 年:建保7年1月27日(1219年2月13日)
家族
母:辻殿(足助重長の娘)「吾妻鏡」。
子:なし
おいたち
正治2年(1200年)に誕生。
父は鎌倉幕府2代将軍 源頼家
母は辻殿(足助重長の娘)「吾妻鏡」
幼名は善哉。
辻殿は源為朝の血を受け継ぎ、源頼朝が頼家の正室に選んだと言われます。そのため頼朝は善哉を頼家の跡継ぎに考えていたとも言われます。
乳母(育ての親)は三浦義村
建仁3年(1203年)9月。比企能員の変が起こると。源頼家は鎌倉を追放されました。
翌年、源頼家は北条氏の刺客によって暗殺されました。
北条政子は善哉を鶴岡八幡宮の別当・尊暁に入門させました。
建永元年(1206年)6月16日。善哉は7歳になり。祖母・尼御台北条政子の邸で着袴の儀式を行いました。
10月22日。北条政子のはからいで3代 将軍源実朝の猶子になりました。このとき乳母夫の三浦義村が付き添っています。猶子は擬似的な親子関係。養子みたいなものですが一般に相続権はありません。
建暦元年(1211年)9月15日。12歳になった善哉は出家。
翌日。受戒のため上洛しました。
源氏と関わりの深い 園城寺(滋賀県大津市、通称 三井寺)で高僧の公胤の門弟になりました。
はじめは「頼暁」という戒名でしたが、公胤の弟子となってからは「公暁」の戒名になったといわれます。
鶴岡八幡宮寺別当の定暁が死去。そのため北条政子は公暁を次の別当にするため呼び戻すことにします。
建保5年(1217年)6月20日。18歳のとき鎌倉に呼び戻され、鶴岡八幡宮寺別当になりました。
このころ北条義時や源実朝が父・源頼家の仇だと知ったと言われます。
その年。10月11日からは裏山で千日参篭をおこないました。
建保6年(1218年)12月5日。公暁は鶴岡に参籠したまま祈祷を行っています。そのため人々は怪しんだといいます。
また伊勢神宮や諸社に使節を送った事がしられています。
実朝を呪ったのではないかとも言われます。
源実朝暗殺
公暁がいつ源実朝の暗殺を思い立ったのかはわかりませんが。
実行の日はやってきました。
建保7年(1219年)1月27日。源実朝は鶴岡八幡宮を参拝しました。右大臣昇進の祝いのためです。その日は2尺(約60cm)ほど雪の積もる夜でした。
参拝を終えた源実朝が石段を降りて、公卿たちが並ぶ所にやってきました。そのとき、頭巾をかぶった公暁が現れて、源実朝を押し倒して「親の敵はかく討つぞ」と叫んで源実朝の頭に斬りつけました。
その後、そばにいた源仲章も斬りました。源仲章を北条義時と間違ったのだとも言われます。
「吾妻鏡」によると八幡宮の石段の上から「我こそは八幡宮別当阿闍梨公暁なるぞ。父の敵を討ち取ったり」と大声で叫びました。逃げ惑う公卿達や公暁を捉えようする武士たちを振り切ってその場は逃げました。
「愚管抄」によると公暁はそのようなことは言わずに、公暁が逃げているのを見て初めて公卿達は実朝が討たれたのを知ったと言います。
このとき。警備責任者の北条義時と武装した兵士たちは、源実朝の命令で鳥居の外で待機していました。警備の兵は実朝の近くにいませんでした。
犯行後の動向
公暁は実朝の首をとったあと。
後見者の備中阿闍梨の家に戻り宅に戻りました。食事の間も実朝の首を離さずそばにおいていました。
そして乳母夫の三浦義村に使いを出して将軍になるための準備をするように伝えさせました。三浦義村は「迎えの使者を送ります」と嘘の報告をして、北条義時に公卿から使いが来た件を報告。
北条義時は評議を行って公暁の殺害を決定。三浦義村は公暁を討つため長尾定景を派遣しました。
一方、公暁はなかなか迎えが来ないので1人で雪の中を三浦義村の屋敷に向かっていました。途中で長尾定景と遭遇。公暁は戦いながら三浦義村の屋敷までたどり着きましたが、板塀を乗り越えようとした所を討ち取られました。
享年20。
長尾定景は公暁の首を持ち帰り、北条義時に見せました。
実朝暗殺の黒幕は誰?
源実朝の暗殺については従来より北条義時、三浦義村、後鳥羽上皇などの説があります。
北条義時説
「吾妻鏡」では北条義時はが将軍の警備責任者でした。ところが当日、気分が悪いと言って源仲章に警備を代わり途中で帰ってます。その後、暗殺事件が起こりました。そのため昔から北条義時が黒幕という説があります。
でも「愚管抄」では北条義時は鶴岡八幡宮には兵を連れていました。でも源実朝の命令で鳥居の前で待機していたのです。「吾妻鏡」は警備のずさんさを隠すための歪曲とも言われます。
また公暁を将軍にすれば自分たちが頼家を殺害した責任を追及される可能性もあります。公暁に将軍にはなってほしくないはずです。
親王を後継者にする計画には北条義時や北条一族も関わっていますから、北条氏が実朝を暗殺してその計画を潰してもメリットはありません。どのみち実朝の血を受け継ぐものはいないのです。
三浦義村説
三浦義村は公暁の育ての親。三浦義村が黒幕という説もあります。
でも北条氏を一掃しなければ源実朝だけ殺しても意味がありません。この説は三浦氏が北条氏の政敵という前提で語られるのですが。三浦義村は鎌倉御家人の争いでもことごとく北条氏に味方した勢力。当時の三浦氏に北条と戦う力はありません。
そもそもが小説のネタ。物語としては面白いですが無理があります。
後鳥羽上皇の説
これは後鳥羽上皇と源実朝の蜜月関係を無視した荒唐無稽な説と言うしかありません。
鎌倉御家人の共謀説
源実朝は力を持ち、朝廷への接近を続けました。鎌倉武士の政治を目指す北条義時にとっては不満なところもあったでしょう。そこで北条義時と三浦義村が共謀して源実朝と源仲章を排除しようとしたという説もあります。
確かに源実朝と北条義時は意見が対立することもあるので、一見ありそうにも思えますが。北条義時は親王将軍の擁立には前向きですし、北条義時自身は意外と後鳥羽上皇との対立は望んでいません。ここであえて源実朝を殺して上皇と対立するのは義時の望むところではないでしょう。
ただ、北条義時はことを荒立てたくないと思っていても鎌倉武士の中には不満に思っている人もいたでしょう。御家人や文官の誰かが公暁に「実朝は父の仇」と吹き込んだというのは有り得る話ですし。全員に口止めするのは無理ですからいずれはバレてしまうでしょう。
単独犯
公暁は本当は実朝の地位にいるのは自分だと思っていたはずです。親を殺された恨みや、後継ぎの可能性が断たれた恨みもあったでしょう。公暁の単独犯行の可能性が高いです。
簡単に討ち取られたのは源実朝が油断しすぎたのです。
まとめ
源実朝暗殺事件は、鎌倉幕府の権力争いの暗部を映し出す悲劇です。
公暁の動機は父の仇を討つという単純なものではなく、複雑な背景があったと考えられます。犯行の背景には北条氏の専横、三浦氏の野心、そして公暁自身の野心など、様々な要素が絡み合っていたのかもしれません。
事件の真相は謎に包まれたままです。今後の研究成果が待たれるところです。
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