延暦23年7月6日(804年)。空海を乗せた遣唐使は九州の田浦を出発。
空海は大使の藤原葛野麻呂とともに第一船に乗りました。第二船には最澄も乗っていました。第一船にには橘逸勢(書家)もいました。
後に日本仏教を支える二人の人物が同じ遣唐使にいたのです。
最澄は既に朝廷内でも高い地位にある僧でした。通訳付きで、留学費用は国が出します。留学期間は1年の請益僧(しょうやくそう)でした。
空海は私費で参加、通訳はありません。留学期間は20年の留学僧(るがくそう)でした。
当時の遣唐使船は東シナ海を直接、唐に向かう航路でした。東シナ海航路は朝鮮半島を経由する航路に比べると遥かに危険です。当時の日本は新羅と険悪だったので朝鮮半島航路は使えなかったのです。
風と潮の流れに翻弄されて遭難する船もありました。空海の渡った夏場は南西風が強い時期。唐から日本に渡るのはいいのですが、日本から渡るのは厳しい時期でした。しかし当時の日本ではまだわからなかったのでしょう。大陸への航海は命がけでした。
密入国者に間違われる
遣唐使船4隻のうち、目的地に近い明州にたどり着いたのは最澄の乗る第二船だけ。第三船、第四船は遭難。空海の乗る第一船も暴風雨にあい東シナ海を南に流され赤岸鎮(福建省寧徳市)に漂着。空海たちがたどり着いたときには帆は折れ、船は損傷していました。
使節は地元の役所をたらい回しにされた挙げ句に250km離れた福州(福建省)の役所に行けと命じられます。
再び船を出してようやく福州の役所にたどり着きました。こんどは日本からの使節だとは認めてもらえません。使節が天皇の国書をなくしていたのです。
密入国者と間違われ船から降ろされて小屋で待たされました。大使の藤原葛野麻呂が文書を書き通訳にもたせましたが。信じてもらえません。大使は空海に文書の代筆を頼みました。
空海の書いた文書を読んだ福州の巡察使の閻済美はようやく日本の使節だと認め、国賓として待遇するように命じました。
10月。長安から迎えの使節が着てました。大使と空海一行は長安に向かいました。許可が出たと言っても長安までは2400kmの長い道のりです。一行が長安にたどり着いたのは12月23日でした。
長安に到着
空海は宣陽坊にある外国人宿舎に宿泊しました。大使の藤原葛野麻呂らは外交使節としての役目をおえて2月には帰国しました。
空海は2ヶ月ほど長安に滞在。当時の長安は様々な国の人が集まる国際的な都市でした。日本や高麗(高句麗)・新羅・百済・渤海・契丹・突厥・鉄勒・回紇・吐蕃他にも中央アジアやインド、ペルシャなどからも人が来ていました。空海は長安の町でさまざまな文化を吸収したようです。
使節の帰国後。空海は西明寺に移り住みました。周辺には、仏教寺院の他にも景教(キリスト教ネストリウス派)、ゾロアスター教、イスラム教などのさまざまな宗教施設があり空海も訪れたようです。西明寺ではインドの僧・般若三蔵や牟尼室利三蔵から梵字を教わりました。インドの宗教事情についても教わっています。空海は日本にいたときも梵字は学んでいたようですが、本場の発音や詳しい意味を教わることが出来ました。空海はサンスクリット語を聞いてその場で漢文や日本語に訳せるほど上達しました。
般若三蔵からは華厳経40巻や様々な経典、梵字の本などを日本に伝えるように依頼されました。華厳経は奈良時代には日本には伝わっていましたが、まだ日本に伝わっていない部分もあったようです。
般若三蔵から教えをうけるうちに、密教の教えを受けるなら「大日経」だけでなく「金剛頂経」も学ばなくてはいけないこと。密教は直接阿闍梨から教えを請うべきなので般若三蔵はその役目ではないことを教えられます。そこで当時長安で最高の阿闍梨は青龍寺の恵果和尚であること、恵果和尚は病であり長くはないことを知らされました。
このころには空海は華厳経や大日経をマスターして、留学の目的は達したといっていいかもしれません。しかし密教についてはまだわからないところもあり、恵果和尚に教えを受けたいと思ったようです。
密教の教えを受ける
空海は般若三蔵に教えられたとおり、青龍寺の恵果和尚を訪ねました。空海に会った恵果和尚は快く受け入れてくれました。おそらく般若三蔵から空海は密教の伝授にふさわしい人材だと聞いていたのでしょう。般若三蔵は空海のサンスクリット語の語学力は高く評価していました。
死期が近いことを悟っていた恵果和尚は、さっそく空海に潅頂を受けさせます。恵果和尚には既に教えを引き継いだ弟子が何人もいましたが、それでも満足出来ていなかったようです。般若三蔵が推薦した空海を最後の弟子にしようと思ったのかもしれません。
潅頂とは正式な継承者になるための儀式です。空海は「密教の修行未履修の私が潅頂の壇に入っていいのか」と戸惑いますが、恵果和尚は明日やろうと言います。般若三蔵に相談すると心構えや準備することなど、親切に助言してくれました。
6月12日。大日経の伝授が始まり。7月には金剛頂経の伝授が行われました。伝授の際には守護仏をきめるため、目隠しをして曼荼羅に花を落とします。空海は大日経の「胎蔵界曼荼羅」、金剛頂経の「金剛界曼荼羅」いずれも中央に描かれた大日如来のもとに花が落ちました。これには恵果和尚も驚いたといいます。
その後、空海は恵果のもとで修行にはげみました。
8月10日。阿闍梨になる伝法潅頂の儀式を終え、正当な伝承者となりました。空海は「遍照金剛」の名を与えられました。
恵果和尚は空海に仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像、袈裟、その他仏具を与えました。
空海もお礼に袈裟と柄香炉を献上しました。
さらに大勢の人々の助けを借りて経典や解説書など書物の写本、仏具の制作、曼荼羅の作成が行われました。
12月15日。恵果和尚は死去。享年60でした。空海は師の命が尽きるぎりぎりのところで間に合ったのです。
空海は弟子を代表して、和尚のために建てる碑文を作成しました。
恵果和尚は死ぬ前に「早く郷国に帰って世間に広めて民衆の幸福が増すように努力しなさい」と言ったといいます。
帰国を決意
空海は師匠の遺言を守るため帰国する決意をします。
運良く次の遣唐使使節の高階真人遠成が長安にいることを知りました。高階真人遠成は空海と同時に出発した遣唐使船の第4船に乗っていました。第4船は遭難しましたが高階真人遠成は運良く助かりました。新しい唐の皇帝が即位した挨拶も兼ねて来ていたのです。
空海は高階真人遠成に書状を送り、奇跡的にありがたい教えを伝授されたこと、いち早く日本に帰って広めたいことを伝えました。留学期間は20年の予定だったので、規則違反になります。高階真人遠成は悩みましたが空海の帰国を申請。唐の朝廷は空海の帰国を許可しました。
師匠の葬儀を終えると帰国を急ぎました。
旅立ちの前、壮大な送別の宴が行われたといいます。その場には師の般若三蔵、牟尼室利三蔵などがいたことでしょう。
旅立ちの朝。長安城外の橋で般若三蔵や文人たちに見送られながら、空海は長安をあとにしました。
空海が帰路の途中に立ち寄った越州で4ヶ月滞在。様々な書物を入手し。様々な知識を学びました。空海が集めた書物は仏教だけでなく、文学、歴史、医学、占い、技術、芸術など多くの種類がありました。
806年8月。空海を乗せた遣唐使船は明州の港を出発しました。
日本に帰国
途中で暴風雨にあって、五島列島福江島に寄港。福江島に真言密教を広めました。
帰国した時期はくわしくは分かっていませんが。空海は大宰府に戻りました。
空海が「虚しく往きて実ちて帰る」と語ったように。
唐に入る前はほぼ無名で、どうなるかわからないという状況だったかもしれません。2年あまりの唐での留学は期待した以上の成果があったのでしょう。
ところが、空海の留学期間は20年。それを2年に短縮したため「国禁を犯した」ことになります。そのためでしょうか。
都入りまで3年
空海は都に入ることを許されずに太宰府で3年間とどめ置かれました。
一説にはこのとき皇位にあったのは平成天皇。平成天皇は異母兄弟の伊予親王を謀反の罪で幽閉。伊予親王は自害しました。
空海の叔父・阿刀大足は伊予親王の教育係。伊予親王との関わりを警戒されたという説もありますが、定かではありません。
空海は留学の成果を伝えるために唐で入手した経典などの目録「請来目録」を作成。朝廷に献上しています。「請来目録」に載っているのは経典や注釈書など216部461巻。仏具など膨大なものでした。それでも許可はおりませんでした。空海の持ち帰ったものがどれほど重要なものか理解できるものがいなかったためといわれます。
しかし空海の目録に注目した人物がいました。先に帰国していた最澄です。最澄は桓武天皇から密教を広めるように言われていましたが、最澄が学んだ密教は一部だけ。空海の持ち帰った経典を見て重要なものだと気が付きました。最澄がとりなしたおかげで都入りが許されたという説もあります。
ようやく朝廷も空海の持ち帰った経典の重要さと密教の後継者としての地位を認めるようになったのでしょう。
大同3年6月19日(808)。朝廷は20年の留学義務を免除する決定を出しました。
大同4年(809)。空海は京の高尾山寺に入りました。
こうして空海は日本に密教を広めることになります。
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