平成の次の元号が「令和」になりました。
「令和」は万葉集の梅の花の宴で作られた32首の和歌の前に付けられた序文から選ばれています。
令和の言葉があるのは短歌の部分ではなく、短歌を集めた部分の前に書かれた序文から。いつどこでどういう状況で詩が作られたのかが書かれています。
ただの説明文ではなく詩としても読めるように、風景の描写や人々の様子が詳しく絵描かれているのが特徴です。万葉人の表現力の豊かさには驚かされます。
その令和の部分が載っている万葉集梅花の詩32首の序文を紹介します。
梅の花の宴とは
万葉集に載っている梅の花の宴とは、天平2年(730年)。太宰府長官の大伴旅人の屋敷で開かれた新年の宴会のことです。
大伴旅人と山上憶良は筑紫歌壇という詩のサークル活動をしていました。
大伴旅人は飛鳥時代から奈良時代の公家。当時は朝廷のほぼトップにいる大臣です。このときは太宰府で長官をしていました。
山上憶良は中堅クラスの役人。筑前守(福岡県知事のようなもの)として九州に赴任していた次期です。
大伴旅人が太宰府や九州各地の要人、詩で知り合った人々を自宅に招いて梅の花を見ながら新年の宴会をしたのです。そのときに盛り上がってきて「じゃあ詩を作ろうじゃないか」ということで出席者が短歌を詠んだようです。このとき集まったのは大伴旅人を含めて32人。大宰府や周辺の九州の人々。大伴旅人のような大臣から様々な立場の役人、医師、陰陽師など立場はさまざま。一人ずつ短歌を作りました。
序文とは
今回「令和」が選ばれた序文は短歌そのものではなく、短歌を読む前に詠った漢詩風の説明書きです。
いつどこで、どのような理由で詩を詠んだか。という内容が書かれています。しかもこの文章自体がただの説明書きではなく情景を細かく描写した詩になっています。
では序文は漢文になってますが、訳したものを紹介します。
万葉集 巻五 梅花の詩三十二首の序文
梅花(うめのはな)の歌三十二首并せて序
天平二年正月十三日、師老(そちのおきな)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(ひら)く。
時に初春(しよしゆん)の令(よ)き月、気淑(よ)く風和(なご)み、梅は鏡前(きょうぜん)の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かをら)す。
しかのみにあらず、曙の嶺に雲移りては、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧を結び、鳥は殻(うすもの)に封(こ)めらえて林に迷(まと)う。
庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。ここに天を蓋(きぬがさ)とし、地を座(しきゐ)とし、膝を促(ちかづ)け盃を飛ばす。
言(こと)を一室の裏(うら)に忘れ、衿(えり)を煙霞の外に開く。淡然(たんぜん)と自(みづか)ら放(ほしいまま)にし、快然と自(みづか)ら足る。
もし翰苑(かんえん)にあらざれば、何をもって情(こころ)を述(の)べん。詩に落梅の篇を紀(しる)す。古(いにしへ)と今(いま)とそれ何そ異(こと)ならむ。宜(よろ)しく園の梅を賦(ふ)していささかかに短詠を成すべし。
序文の現代語訳
これではまだ難しいので現代風に直すとこうなります。
天平2年(730年)正月13日。太宰府師の大伴旅人の屋敷に集まって宴会を開く。初春の良い月、気は麗しく風はやわらかだ。
梅は鏡台の前の女性が装う白粉のように開き、蘭は身を飾ったお香のように薫っている。
それだけではない。明け方の峰には雲が移り動き、松は雲の薄衣をかけたように傘を傾ける。山のくぼみには霧が立ち込め、鳥は薄霧に閉じ込められたように林の中で迷っている。
庭には産まれたばかりの蝶が舞い、空には年を越した雁が帰ろうと飛んでいる。
さてそこで天空を屋根として地を敷物として膝を近づけ酒を交わそう。皆は言葉も忘れ、心をくつろがせている。さっぱりと気楽に振る舞い、それぞれが満ち足りている。
これを文章にしなければどのようにして心を表現するというのか。
漢詩にも多くの梅の詩があるように、昔と今で何の違いがあろうか。
ぜひとも園の梅を詠んでいくらかの短歌を作ろうじゃないか。
以上です。
この文章の作者は分かっていません。山上憶良ではないかといわれますが、どうも憶良の作風とは違うような気がします。
ずいぶんと風流な文ですし、集まった人を前に地位の高い人が言ってるような雰囲気の詩なので作者は大伴旅人だと思います。
この場合、旅人が自分のことを「師老」と呼んだことになります。師は役職の太宰師を意味する言葉。「老」は年長者を尊敬した呼び方ですが、年長者が自分を謙遜して言うときにも使う言葉です。だから旅人が使っても不思議ではないです。
現代的に言えば「この老いぼれの家によく来てくれた」という感じでしょうか。
令和が書かれた部分
元号の「令和」は「初春の令月にして、気淑く風和ぎ」の部分から「令」と「和」が選ばれたんですね。
令月とは「良い月」「何事をするのにも縁起のいい月」という意味です。正月の別名としても使われます。
次の記事では宴会の主催者の大伴旅人と交流のあった山上憶良がどのような人物なのか紹介します。
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