反正天皇は第18代の天皇。
5世紀に存在した大和の大王です。
古代中国の歴史書「宋書」「梁書」にある倭の五王の「珍(彌)」にあたる人物ではないかともいわれています。
反正天皇とはどんな人だったのでしょうか。
反正天皇という諡号は奈良時代に付けられたものです。また反正天皇が生きている時代には「天皇」の呼び方はなく「大王:おおきみ」と呼ばれていました。
ですがこの記事ではわかりやすくするため「反正天皇」と書きます。
反正天皇とは
諡 号:反正天皇
和風諡号:多遅比瑞歯別尊(たじひのみつはわけの みこと)
生 年:仁徳天皇24年
没 年:反正天皇5年
在位期間:反正天皇元年~反正天皇5年
都:丹比柴籬宮(たじひのしばかきのみや)
大阪府松原市上田七丁目。柴籬神社付近?
家族
母:磐之媛命(いわのひめ の みこと)
皇夫人:津野媛(つのひめ)
子:香火姫皇女(かいひめ の ひめみこ、甲斐郎女)
円皇女(つぶらのひめみこ)
妃:弟媛(おとひめ、津野媛の妹)
子:財皇女(たからのひめみこ)
高部皇子(たかべのみこ)
父親は16代仁徳天皇(にんとくてんのう)。
母親は葛城襲津彦(かつらぎ の そつひこ)の娘・磐之媛命(いわのひめ の みこと)。古代豪族の名門・葛城氏の出身です。
兄弟には同母兄の履中天皇、住吉仲皇子。
同母弟の允恭天皇がいます。
歯が綺麗な皇子
反正天皇は美形だったといわれます。歯並びがとても綺麗だったので「ミツハ(水歯、瑞歯)」の名がつけられました。
古事記によると身長は9尺2寸半。古代の一尺は現代とは違っていたようなので正確な大きさはわかりません。もともとは1尺=手のひらを広げたときの親指から中指までの長さと言われますので1尺=18~20cmくらいでしょうか。だとするとおおよそ166cm~185cmになります。当時としては背が高かったようです。
反乱を起こした兄を暗殺
履中天皇元年。長兄の履中天皇が即位したばかりのころ。次兄のスミノエノナカツ皇子(墨江之中津王)が反乱を起こしました。宮殿を焼かれた履中天皇は難波宮(大阪府大阪市)から石上神宮(奈良県天理市)まで逃げました。
ミツハワケ皇子(後の反正天皇)は履中天皇に会おうとしました。しかし、履中天皇はミツハワケ皇子を疑っていたので会おうとしません。スミノエナカツ皇子を殺すように命令しました。
兄の命令を受けたミツハワケ皇子は難波に戻り、スミノエノナカツ皇子に仕えているる隼人(九州南部の部族)のソバカリ(曽婆訶理、日本書紀ではサシヒレ(刺領巾))に近づき「大臣にしてやる」と味方になるよう説得しました。ソバカリはスミノエノナカツ皇子を裏切り、ミツハワケ皇子が命じられるままスミノエノナカツ皇子を暗殺しました。
ミツハワケ皇子はソバカリと共に大和の兄のもとへ向かいました。その道中。ソバカリに大臣の位を与えたあと殺害します。
その後、ミツハワケ皇子は石上神宮に向かって履中天皇に会い報告しました。
履中天皇2年。ミツハワケ皇子は太子(ひつぎのみこ)となり次の天皇の有力候補になりました。
履中天皇6年。履中天皇が死去。兄の死後ミツハワケ皇子は即位して反正天皇になります。
天皇に即位
反正天皇元年。1月に即位。
8月。和珥木事の娘・和邇津野媛とその妹の和邇弟媛を妃に迎えます。
10月。反正天皇は丹比柴籬宮(たじひのしばがきのみや)に宮殿を造り政治を行いました。現在の大阪府松原市上田七丁目。柴籬神社のあたりと考えられます。
この年、丙午(406年)。
反正天皇5年。死去。
日本書紀では庚戌の年(西暦410年)
古事記では丁丑の年(西暦437年)。このとき60歳だったといいます。
どうやらはっきりした死亡年が伝わってなかったらしく「だいたいこのあたり」と考えればよいでしょう。
反正天皇の在位期間は5年と短いものでした。その間も特に変わったことはなく平穏な時代だったようです。古事記や日本書紀にはどんな政治を行ったのか記録はありません。
倭の五王の珍?
中国の歴史書「宋書」には倭王の珍が使者を送ってきたとあります。
珍がどの天皇になるのかよく分かっていません。
反正天皇ではないかという説が有力です。
年代的にも古事記に書かれた反正天皇の時代に近いです。
438年。珍は宋の文帝に「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」の位を求めました。
反正天皇より前の時代。おそらく応神天皇の時代に朝鮮半島に出兵しました。
好太王碑文によれば倭国軍は百済の救援要請に応える形で新羅や高句麗と戦いました。新羅には勝ちましたが高句麗の広開土太王に敗れました。神功皇后の三韓征伐の話のモデルになった出来事と思われます。
直接戦うと高句麗にはなかなか勝てません。中国の宋に朝鮮半島の支配権を認めてもらおうとしていました。
文帝は朝鮮半島の軍事的支配権は認めませんでしたが「安東将軍倭国王」を授けました。
また倭王珍は倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にするよう求めました。これは認められました。
古事記や日本書紀などの大和朝廷の正史にはこの時代に使者を送ったという記録はありません。古事記や日本書紀は国外で起きていることは全体的に淡白です。海外の記述は百済本記などの外国の書物の引用か物語のような抽象的な話になってしまいます。とくに古い時代ほどその傾向が強いです。
宋への使節派遣は結果的にたいした成果はありませんでした。正史に残す程ではないと判断されたのでしょう。
反正天皇の陵墓
百舌鳥耳原北陵(もずのみみはらのきたのみささぎ)
別名:田出井山古墳(たでいやまこふん)
場所:大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2丁
前方後円墳
墳丘部分の長さは148m。
5世紀中頃造られたと考えられます。
百舌鳥古墳群の天皇陵にしては小さいので反正天皇の陵墓なのか疑問視する意見もあります。そこで宮内庁では「土師ニサンザイ古墳」も反正天皇陵の候補地としています。
ニサンザイはミサンザイ(陵:みささぎ)がなまったもの。
土師ニサンザイ古墳(はぜにさんざいこふん)
場所:大阪府堺市北区百舌鳥西之町
前方後円墳
墳丘部分の長さは290m。
5世紀後半に造られたと考えられます。
百舌鳥古墳群の中では最も新しい時代の古墳といわれます。
コメント
反正天皇のミツハワケ。
これ(ミツハ)は文字によるある種の呪詛ではないか?
歯の美しい?と言われる(附会された)神さまが、
都美(積)歯八重事代主神。
いわゆるエビス神さまですが、
出雲の元王家による伝承では、件の元王家のご先祖さま(当主)で出雲王国第八代スクナヒコ(副王の称号)であった
八重波津身。さまが生前のお名前。
八重波津身を反転(呪詛)させれば、ツミ・ハ・八重・事代主(副王)
※波(ナミ)には立派な男子/大丈夫。の意味があるとの事。
反正天皇のミツハワケも同様の作為が為された可能性を考えたら?
波都美別、、、
波(ナミ)ツミ/トビ=事代主(富家/登美家。大鴨王家)の子孫(ワケ)
他方、母方の血筋は、いわゆる武内宿祢の曾孫が襲津彦王(拠点の変遷で、日向→難波→長柄/葛城と冠が変わった)
襲津彦王の尽力と信望によって絵空事であった息長帯姫/神功皇后(史実ではワカタケル大王/成務天皇の皇后)の三韓国平定が実現して、結果、二人(実質的な夫婦関係にあった)の下には莫大な賠償と年貢収入がもたらされた。
お二人には実子のホムタ御子がいらっしゃいましたが、僅か七歳(数え歳。満年齢では5~6歳)で幼逝。
跡取り息子(嗣子)の死亡が外部(半島諸国)に漏洩すれば、苦労惨憺の末に手に入れたせっかくの半島諸国の権益を反故にされる事は明白なため、
深い悲しみをこらえて厳重な箝口令が敷かれる中、
たまたま同じ年格好だと聞いた上毛野国造家(宇佐族)の御子の竹葉瀬君を至急養子に迎えて
亡くなったホムタ御子として偽装。
ホムタ御子こと、宇佐族の竹葉瀬君が成人/大王に即位したのが応神天皇との事です。
襲津彦王と息長帯姫~応神天皇朝にもたらされる莫大な年貢を納めた倉庫の管理人だったのが、
襲津彦王の御子の一人、武内臣(平群臣)都久さま。
どうも、彼はその年貢をツツキ、啄み、肥え太り(横領して)自立して大王位を応神朝から奪って、、、
仁徳天皇の気配が濃厚です。
仁徳の善政と言われる三年間の免税。の後ろ楯は半島諸国からもたらされていた莫大な年貢収入があったからこそ。
また、巨大な古墳群の築造に掛かる莫大な財源も同様だったのではなかったか?