源倫子:藤原道長を出世させた正妻とは?

平安時代 4 平安時代

源倫子(みなもとの ともこ/りんし)は10世紀の平安時代の女性。

藤原道長の正妻です。

源倫子は宇多源氏出身。
宇多天皇のひ孫で父は左大臣・源雅信。
結婚した時は源倫子の方が道長よりも格上で、道長が逆玉の輿婚状態でした。

源倫子は2男4女を産み、3人が皇后になりました。孫は天皇になっています。倫子は活動的な女性で頻繁に宮中を訪れ娘や孫たちの世話をしています。

道長の出世は源倫子と結婚できたからからといってもいいかもしれません。

この記事では源倫子について紹介します。

 

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源倫子とは

名前:源倫子(みなもとの ともこ/りんし)
生 年:康保元年(964年) 
没 年:天喜元年6月1日(1053年6月19日)

父:源雅信(みなもとの まさのぶ)
母:藤原穆子(ふじわらの ぼくし/むつこ/あつこ)

兄:藤原安親

夫:藤原道長
子:藤原 彰子、道綱、妍子、教通、威子、嬉子

 

道長以上の高貴な血筋

康保元年(964年)。倫子は土御門邸で生まれました。
藤原道長より2歳年上です。

父は左大臣・源雅信(みなもとの まさのぶ)
雅信は宇多天皇の孫。
つまり倫子は宇多天皇のひ孫です。
円融天皇の信頼を得て左大臣に出世。関白・藤原頼忠や右大臣藤原兼家にとって最も手強い相手になっていました。

母は藤原穆子(ふじわらの ぼくし/むつこ/あつこ)正式な読み方は不明
 藤原北家の出身。中納言従三位まで進んだ藤原朝忠(ふじわらの あさただ)の娘。

倫子を天皇の后にという父の目論見が外れる

花山天皇の時代。
源雅信は娘の倫子を入内させようと考えていました。

寛和2年(986年)。ところが花山天皇は早々と退位してしまいます。あとを継いだ一条天皇はまだ6歳。22歳の倫子とは歳が離れすぎています。倫子の入内は実現しませんでした。

藤原道長が倫子に求婚

道長が倫子に求婚した時。父の源雅信は若造の道長を相手にしませんでした。でも道長を気に入っていた母・穆子が強く勧めたため雅信も認め。

寛和3年(987年)。倫子は藤原道長と結婚しました。
倫子は24歳、道長は22歳でした。

このとき道長の父・藤原兼家も官位の浅い者を婿に迎えてもらって恐縮ですと言ったほど。源雅信の家の方が格上。道長は右大臣・兼家の子とはいえ五男で官位も低く。道長とっては逆玉の輿結婚でした。

道長は結婚してしばらくは倫子が両親とともに暮らす土御門邸に通っていました。まもなく源雅信は一条殿に引っ越し。土御門邸は倫子が受け継ぎ。道長・倫子夫妻が暮らしました。

両親と別居後も親からの援助はありました。とくに道長を気に入っている倫子は毎年、夏と冬に装束を贈ってくるほどでした。

道長は妻の実家にお世話になっていたのです。

 

当時、倫子は24歳で、道長は22歳でした。道長の実父である摂政藤原兼家を牽制できた唯一の公卿は源雅信であり、この結婚は兼家と雅信の緊張を和らげるのに役立ち、道長の政治的および経済的基盤の形成に大きな意味を持っていました。

二男四女の母になる

永延2年(988年)。長女の彰子(後の一条天皇中宮・上東門院)が生まれました。

正暦元年(990年)。道長の父で関白の藤原兼家が死去。道長の兄・道隆が関白になりました。道隆の家系・中関白家は後に道長の政敵になるのですが。道隆と道長は13歳も年が離れていて道隆は道長をそれほど脅威とは思っていません。道隆は娘の定子を一条天皇に入内させると道長に中宮定子の中宮大夫を任せるほどでした。

倫子の父・左大臣 源雅信はまだ健在。
岳父(妻の父)の後ろ盾もあり、道長は順調に出世していきます。

正暦3年(992年)。長男の頼通が生まれました。
このころ、道長は源明子と結婚していますが彰子の正妻の地位は変わりません。

倫子は政治には関わらず、道長の正妻として家を切り盛りしていました。

正暦4年(993年)。父・源雅信が死亡。

正暦5年(994年)。次女の妍子(後の三条天皇中宮)が生まれました。

この年、藤原道隆、道兼が死亡。
道長の姉で一条天皇の母・東三条院 藤原詮子の後押しで道長が内覧(関白とほぼ同等の業務を行える)、藤原氏の氏の長者になりました。

長徳2年(996年)。教通が生まれました。
この年、道長が左大臣になりました。

異例の出世

長徳4年(998年)正月。従五位上になりました。ここまでは左大臣の妻としては当然の昇進です。

ところが早くも10月には従三位になりました。

東三条院 藤原詮子は一条大宮院が完成するまでの間、土御門邸や一条邸に滞在していました。土御門邸や一条邸はもともと源雅信の物で倫子が相続したものでした。そのお礼で詮子が特別に昇進させたのです。

しかし他の意味もあるといいます。

翌年には長女の彰子が入内することになっていました。でも一条天皇には他にも后がいてその母もいます。その后の母立ちに負けないように倫子の地位を上げたのではないかといわれます。

娘の彰子が一条天皇の后になる

長保元年(999年)。娘の彰子が入内。一条天皇の后になりました。
彰子は牛車に乗ったまま御所に入りました。彰子はまだ12歳。幼い后の後見人として倫子も牛車の中にいたかもしれません。

そこから3日間。結婚儀礼と藤壺で祝宴が開かれました。かがやく藤壺といわれるほど豪華な調度品や装束が並びました。

祝宴が終わると彰子は退席しました。実はこのとき倫子は妊娠していました。しかも44歳です。翌月には出産予定なので倫子としても大変だったと思いますが、倫子としても娘の入内はなんとしても成功させたいという想いがあったのかもしれません。

翌月。威子(後の後一条天皇中宮)が生まれました。

長保2年(1000年)。彰子が中宮になりました。倫子は従二位になりました。

長保2年12月。皇后定子は難産のため崩御。
敦康親王は生母がいなくなったため、中宮彰子が養母になりました。でも彰子はまだ13歳です。実際には中宮彰子の母・倫子が敦康親王の養育に関わっていました。

寛弘3年(1006年)。一条天皇が花見のために東三条邸と一条邸を御幸。倫子は正二位になりました。

寛弘4年(1007年)。嬉子(後の東宮敦良親王妃、後冷泉天皇の母)が生まれました。その後、倫子は病にかかります。

敦成親王の誕生

寛弘5年(1008年)。中宮彰子が実家の一条邸で敦成親王(後一条天皇)を出産。一条天皇が一条邸に行幸。倫子は従一位になりました。皇族を除けば倫子は最高位の女性になります。

倫子の機嫌を悪くして慌てる道長

敦成親王の五十祝(誕生して50日のお祝い)の日には土御門邸で盛大な宴が行われました。

客人が帰り道長と家族だけになったときのこと。酒に酔った道長はご機嫌で「中宮様の父として私は申し分ないですし、中宮様も私の娘として申し分ありません。母もまた幸せだと思って笑っています。さぞかしよい夫をもったと思っているでしょう」と言いました。中宮彰子はそれを笑って聞いていました。すると倫子は機嫌を悪くしたのかその場を立ち去ってしまいます。すると道長は慌てて「お母さまをお見送りしないと恨むから」と言って倫子の後を追おうとしました。そして退出する前に「中宮様は無礼と思うかもしれませんが親がいればこそ子も安泰なのです」と独り言のように言って倫子の後を追いかけました。それを見た女官たちは笑っていました。(紫式部日記)

道長としては自分はいい父で夫だと自慢したい気持ちがあったのでしょう。酒に酔った勢いでつい言ってしまったものの。倫子の態度を見て慌てる様子が描かれています。道長といえども倫子には気を使わなければいけない様子がよくわかります。

その後も。倫子は道長とともに宮中に参内したり。一人で行ったりと積極的に行動しています。

寛弘7年(1010年)、道長と倫子の次女 妍子が皇太子 敦明親王に入内。

三条天皇の時代

寛弘8年(1011年)。一条天皇が病気のため譲位。敦明親王が即位、三条天皇になりました。

妍子は中宮になります。

長和3年(1014年)。内裏が火事になりました。中宮妍子と東宮淳成が大内裏に非難しました。このとき倫子は手輦(輿に車輪を付けて人間が動かす乗り物)に乗って宮中に急ぎ、中宮妍子と東宮淳成の世話をしました。

三条朝には長女の彰子が皇太后、次女の妍子が中宮になっていて倫子の訪問先も増えていました。様々な用事や宮中で行事があるたびに倫子は内裏を訪れました。

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後一条天皇の時代

長和5年(1016年)。三条天皇が譲位。後一条天皇が即位しました。
後一条天皇は彰子の子供です。後一条天皇はまだ8歳。道長が摂政になりました。

太皇太后彰子の命により、道長と倫子は准三宮になりました。后と同格の地位を与えられたのです。皇族でない臣下の女性が准三宮になったのは初めてです。

 寛仁2年10月16日(1018年)。三女・威子が入内。後一条天皇の中宮になりました。

望月の歌

倫子が父から相続した土御門邸に後一条天皇と皇太子が行幸。
太皇太后彰子、皇太后妍子、皇后威子の三后が揃いました。皇太子妃の嬉子もいます。

このとき道長が「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」の歌を読んだのは有名です。

その場に倫子もいました。倫子にとっても喜ばしいひとときだったでしょう。

夫と娘が他界

しかしいい時はいつまでも続きません。
娘たちと夫が次々と亡くなってしまいます。

万寿2年(1025年)。四女・嬉子崩御。享年19。
万寿4年(1027年)。次女・妍子崩御。享年36。

万寿4年(1027年)。夫の道長死去。享年64。

長元9年(1036年)。三女・威子崩御。享年38。

長女の彰子以外の娘たちも相次いで亡くなります。

長暦3年(1039年)には出家、清浄法と名乗りました。

その後、孫または曾孫の後冷泉天皇の天喜元年(1053年)に90歳で亡くなりました。

 

 

ドラマ

千年の恋 ひかる源氏物語 2001年、東映 演:浅利香津代
光る君へ 2024年、NHK大河ドラマ 演:黒木華 役名:源倫子(みなもとのともこ)

 

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