崇徳上皇は保元の乱で敗れ、讃岐国(香川県)に流罪になり。現地で亡くなりました。
崇徳上皇は怨霊として恐れられるようになります。
崇徳上皇の死後、どのようにして怨霊伝説が産まれ人々はどのようにしたのか紹介します。
保元の乱で勝った後白河上皇は崇徳上皇を罪人扱いしました。崇徳院が死去した後も朝廷は埋葬の場所を指示しただけで葬儀はすべて讃岐国司が行いました。普通、天皇が死去したときは朝廷は仕事をやめて朝廷をあげて葬儀を行います。しかし後白河上皇は無視して裳にも服さなかったのです。
崇徳院の死後、相次ぐ不審な事件
崇徳上皇が死去した翌年、ときの天皇が死去。
久寿2年12月9日(1165年9月5日)。二条天皇 死去。23歳の若さでした。
その次の年にはまだ若い摂政が死亡。
永万2年7月26日(1166年8月23日)。摂政 近衞 基実 死去。24歳。
保元の乱で崇徳上皇と対立した藤原忠通の息子。
しかし。後白河上皇は崇徳院を無視し続けました。
崇徳上皇が死去して12年後。
安元2年(1176年)には近親の者が立て続けに亡くなります。
6月13日。高松院姝子(よしこ)死去。36歳。二条天皇の中宮。父は鳥羽上皇。母は美福門院得子。
7月8日。建春門院滋子(しげこ)死去。35歳。後白河上皇の女御。高倉天皇の生母。
7月17日。六条院死去。13歳。79代六条上皇。後白河上皇の孫。史上最年少の上皇。
9月19日。九条院呈子(しめこ)死去。46歳。近衛天皇の中宮。藤原忠通の養女。
1年の間に皇族が4人も亡くなっているのです。
このころには公家たちは原因は「あれしかない」と噂し合うようになりました。
次の安元3年(1177年)は物騒な年でした。
延暦寺の強訴。加賀守・藤原師高が白山の末寺を焼いたことから、白山の僧侶が騒動をおこしました。白山は天台宗だったことから延暦寺と朝廷の対立に発展。4月13日には抗議のため僧兵達が神輿を担いで御所に向かいました。迎え撃った朝廷軍が神輿に矢をあてたことから、朝廷軍と僧兵の戦いに発展。高倉天皇が避難するなど、都は騒然としました。
4月28日 安元の大火。平安京で火事が起こり洛中の3分の1が炎上。大極殿や朝廷の主要な建物が消失。のちに太郎焼亡(たろうしょうぼう)ともいわれます。
翌年
治承2年3月24日(1178年)。治承の大火。七条東洞院から朱雀大路までが炎上。人口密集地帯を襲った火災は多くの人々の命を奪いました。次郎焼亡(じろうしょうぼう)ともいわれます。
相次ぐ重要人物と事件、火災は、朝廷の人々は崇徳院と藤原頼長の怨霊の仕業に違いないと考えるようになりました。それまで崇徳院を無視しようとしてきた後白河上皇でしたが、二度の大火はこれほどの災難が続くと認めざるを得ません。
5月。朝廷で讃岐院と藤原頼長の祟りについて話し合われます。
6月にはさらに事件が起きます。「平家打倒を企てた」という理由で後白河上皇の側近達が次々と捕らえられ死罪や流罪になりました。「鹿ヶ谷の陰謀」とよばれます。後白河上皇と平清盛の仲は修復不能なまでに悪化。
崇徳院の誕生
治承2年(1178年)。追い詰められた後白河上皇は讃岐院を鎮魂することにしました。
讃岐院の鎮魂は、崇道天皇(早良親王)の例を参考に行われました。崇道天皇は、かつて桓武天皇によって謀反の疑いをかけられ、阿波に流される途中で崩御して怨霊になったといわれました。
崇道天皇(早良親王)のときは、天皇号「崇道」を贈りお墓を改装して寺を建立しました。
8月。それまで「讃岐院」と呼ばれていたのが「崇徳院」に改められました。
これ以降、非業の死をとげたと考えられる天皇には諡号に「徳」が付くようになりました。
安徳天皇、顕徳天皇(後鳥羽天皇)、順徳天皇です。
崇徳院が建てた成勝寺で供養が行われました。以後、歴代天皇と同じように崇徳院の供養も行われるようになりました。
こうした供養は後白河上皇が中心になって行いました。しかし怨霊騒ぎがこれで治まったわけではありません。
なにしろ頑なに崇徳院の恨みを否定していた後白河上皇が崇徳院を怨霊だと認めたのです。
むしろ世間の人々はますます崇徳院が怨霊だと噂し合うようになったのです。
京都にできた崇徳院廟
寿永3年(1184年)。後白河上皇の命令で京都春日河原に崇徳院廟が建てられました。
春日河原は保元の乱の舞台となった場所です。
保元の乱で命を落とした藤原頼長も一緒に祀られました。頼長も崇徳院とともに怨霊になったと考えられたからです。
御神体には兵衛佐が持っていた崇徳院の遺品が選ばれました。普賢菩薩の像がある八角形の鏡だったといいます。兵衛佐は崇徳院が愛した女御で讃岐まで付いて行きました。崇徳院の死後、京都に戻り崇徳院の菩提を弔って生きてました。
建久2年(1191年)。後白河上皇は病になります。
後白河上皇は讃岐国の崇徳院陵と長門国(山口県)の安徳天皇陵にお堂を建てて菩提を弔うように命令しました。寿永2年(1183年)に、安徳天皇が平氏とともに都を離れると、後白河上皇はすぐに後鳥羽天皇を即位させました。そのため安徳天皇に後ろめたい気持ちがあったのだといわれます。
讃岐国の崇徳院陵と長門国の安徳天皇陵に御影堂が建てられました。
建久3年(1192年)。ところが供養の効果はなく後白河上皇が死去。
以後、崇徳院廟は粟田宮と呼ばれます。崇徳院廟のある場所が粟田郷という地名だったからです。粟田宮では毎年、崇徳院が亡くなった8月に祭祀が行われました。応仁の乱で粟田宮が焼失するまで300年間祭祀は続けられました。粟田宮焼失後は御神体は平野神社に移されました。
もうひとつの崇徳天皇御廟
粟田宮とは別に、京都には崇徳院御影堂が建てられました。それが現在も祇園に残る崇徳天皇御廟です。崇徳院の寵愛をうけていた阿波内侍烏丸局(あわのないしからすまのつぼね)が綾小路河原の自宅で崇徳院御影堂を建てたのが始まりだといわれます。
繰り返される怨霊さわぎ
こうして様々な鎮魂が行われてきましたが、人々の間から崇徳上皇の怨霊になったという記憶はなくなりませんでした。その後も、後鳥羽上皇、後醍醐天皇が戦に敗れて流されて怨霊になったと考えられました。そのたびに崇徳上皇の怨霊が注目されました。
しかも崇徳上皇の没後100年おきに行われる式年祭の前後には大きな事件が起こります。人々はますます崇徳上皇の怨霊を意識します。
没後100年付近 文永5年(1268年)。元から使節が来て朝貢を迫る。後の元寇のきっかけになります。
没後200年付近 1336~1391年まで続いた南北朝時代。とくに1361年は南朝側の懐良親王が西国の武士の支持を得て九州の大宰府で征西府を開きました。九州が独立しかねない状態になります。
没後300年付近 応仁元年(1467年)。応仁の乱発生。
没後400年付近 永禄8年(1565年)。将軍・足利義輝が三好三人衆に襲撃され死亡。事実上の室町幕府の壊滅。 その3年後に織田信長が足利義昭を担いで上洛するものの追放される。名実ともに室町幕府が終わります。
没後500年付近 明暦3年(1657年)明暦の大火。寛文元年(1661年)御所炎上。
没後600年付近 明和4年(1767年)。明和事件。幕府による尊王派への粛清弾圧事件。
没後700年付近 幕末。
もちろん偶然で片付けることは簡単です。しかし当時の人々にとっては怨霊騒ぎは「存在するもの」と考えられていました。
そして後白河上皇より後の天皇で崇徳天皇の怨霊を最も恐れたのが孝明天皇でした。
京都に戻った崇徳天皇
孝明天皇が即位したのは1846年。15歳で即位したので普通に生きれば在位期間中に崇徳天皇の没後700年(1864年)がやってきます。
しかも陰陽道の考えでは60年おきに甲子(かっし)の年がやってきます。甲子の年は動乱の年だと信じられていました。もっと具体的には辛酉(しんゆう)の年に帝の天命が尽き、甲子の年に革命が起きて国の体制が代わり、戊辰の年に王朝が滅びる。と考えられていたのです。
しかし動乱を避ける方法があります。それが改元です。甲子の年の前に改元してしまえば動乱は起こらないのです。
だから幕末の辛酉の年には文久に、甲子の年には元治に、戊辰の年には明治に元号が改められました。しかし孝明天皇の想いも虚しく改元の効果はありませんでした。甲子の年。元治元年には蛤御門の変が起きて京都が火に包まれました。蛤御門の変では御所に鉄砲が撃ち込まれるという日本史上始まっての事件が起きています。外国からの開国圧力は強まり、国内では幕府と長州ら強行派が対立して長州征伐が起きています。
歴代の天皇でも人一倍信仰心の深かった孝明天皇はこうした幕末の混乱は崇徳天皇の呪いだと信じました。
そこで孝明天皇は崇徳天皇天皇没後700年の年に「崇徳天皇の神霊を京都に戻して慰め奉ること」と命令を出しました。
京都に崇徳天皇をお祀りする白峯社を造ることになったのです。敷地は飛鳥井家の敷地の一部を使うことが決まりました。地鎮祭が行われ社殿の建築が始まりました。ところが白峯社の造営中に孝明天皇が崩御。天皇崩御によって造営は中断しました。
その後、即位した明治天皇は父の意思を継ぎました。白峯社の造営が再開されます。
慶応4年9月6日。讃岐国の白峯御陵から京都の白峯社に崇徳天皇の神霊が移されました。崇徳天皇(の魂)は死後700年ぶりに京都に戻ることができたのでした。
時代は戊辰戦争の真っ最中。東北地方ではまだ戦は続いています。朝廷としては崇徳天皇の怨霊が旧幕府軍に味方することを恐れ、丁重な儀式が行われました。
そして翌日の9月7日に明治天皇の即位の大礼が行われ。
その翌日の9月8日。元号は慶応から明治に変わりました。
武士の世の中の江戸時代から天皇を中心とした国作りの始まる明治。時代の分岐点に崇徳天皇の怨霊は現れたのです。少なくとも朝廷の人々はそう考えました。
孝明天皇は武士の世を終わらせるために崇徳天皇の神霊を京都に戻そうとしたのではありません。諸外国の圧力と国内の混乱を治めて平和な世の中にするために崇徳天皇の神霊を京都に戻そうとしたのです。
しかし武士の世を終わらせたい人々にとっても崇徳天皇と朝廷の和解は必要でした。何しろ朝廷の力が衰え武士の世の中が来たのは崇徳天皇の呪いだと信じられていたからです。
他に合理的な理由があったとしても、人の心に不安に思う気持ちがある限り怨霊は人の心の中で生き続けます。そうした怨霊への不安を終わらせたのが白峯社の造営でした。
こうして何百年もの間恐れられた崇徳天皇の怨霊は静かな神・御霊となったのです。
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