赤染衛門(あかぞめえもん)は平安時代中期の女流歌人。
和泉式部と並ぶ代表的な女流歌人です。
藤原道長の妻・源倫子とその娘・中宮彰子に仕えた女房でした。
「栄花物語」の主要な作者とも言われます。
赤染衛門はどのような人物なのか紹介します。
赤染衛門
名前:不明
赤染衛門(あかぞめ えもん)、匡衡衛門(まさひら えもん)
生 年:不明
没 年:不明
父:赤染時用(あかぞめの ときもち)
母:不明
夫:大江匡衡(おおえの まさひら)
子:江侍従・挙周・娘
おいたち
赤染衛門の本名は不明。
赤染衛門は女房名(通称)です。
「赤染」は父の姓・赤染。「衛門」は父が衛門府に勤めた役人だったことからつけられました。
赤染衛門の生年は不明。10世紀中ごろ。藤原実資(957~1046年)とほぼ同年代の人物といわれます。紫式部より10歳くらいは年上のようです。
父は赤染時用
赤染氏は下級役人の家柄。
父の時用は、村上天皇の時代に衛門府に所属した中流役人でした。
母は不明ですが、大江氏の出身ともいわれます。
有名な歌人の子?
ところが平安時代末期の歌学書「袋草紙」によると。赤染衛門の父は有名な歌人の平兼盛で。母が赤染衛門を宿した状態で平兼盛と離別。赤染時用と再婚して娘の赤染衛門を出産。兼盛は娘を自分の子だと訴えましたが認められず、時用の子として育てられた。と書かれています。
この話がすぐに事実とは考えられませんが。平安時代の終わり頃には本当のことだと信じられていたようです。赤染衛門が有名な歌人だったので親も有名な歌人に違いない。という人々の思いがそのような伝説を作ったのでしょう。逆に平兼盛の子という噂は赤染衛門本人の評価も高めたかもしれません。
源雅信の娘・倫子に仕える
赤染衛門は十代のころ。源雅信(みなもとの まさのぶ)の家に奉公に出ました。そこで雅信の娘・倫子つきの女房になったと考えられます。「赤染衛門」という女房名はこのころ付いたと思われます。
赤染衛門は源雅信の屋敷内に房(部屋)を与えられ、そこで暮らしていました。
赤染衛門は倫子の外出には同行。雅信一族の人たちとも歌の交換をしていました。
倫子が藤原道長と結婚後は倫子の屋敷内に部屋を与えられそこで暮らしました。彰子の誕生後は倫子・彰子親子に仕えました。
赤染衛門は自分で歌を詠むこともありますが。人から頼まれて作ることも多かったです。道長の要請で歌を作ることもありました。
倫子・彰子のまわりには多くの女性文化人が集まりました。赤染衛門は紫式部・和泉式部・清少納言・伊勢大輔らとも交流がありました。
「紫式部日記」にも書かれていますが。赤染衛門は歌人だからといってなにかにつけて歌をむような人ではなく。ちょっとした場所や人から頼まれたときには歌を詠むタイプの人だったようです。
そのせいか赤染衛門と他の女房とやり取りした歌はあまり残っていません。
大江匡衡の従兄弟・為朝と恋愛関係
赤染衛門は一時期、大江為朝(おおえの ためとも)と恋愛関係にありました。赤染衛門が為朝とやりとしした歌が「赤染衛門集」に載っています。
為朝は後に赤染衛門の夫になる匡衡の従兄弟。為朝のほうが先に出世していました。でも為朝は病気がちで、職務怠慢で摂津守を解任されたこともあります。
赤染衛門との関係は長続きしなかったようです。
大江匡衡と結婚
その後。時期は不明ですが貞元年中(976~978)には為朝の従兄弟の大江匡衡(おおえの まさひら)と結婚しました。
大江匡衡は一条天皇の侍読(講師)も勤めた一流の学者。朝廷の役人として働くほか、摂関家との付き合いもありました。
匡衡との結婚生活も最初は通い婚でした。
赤染衛門は藤原道長・倫子夫婦の家で暮らしています。
主人の家で暮らす女房のもとに通う。ということは、匡衡が道長・倫子の屋敷の敷地に入ることになります。匡衡にとっては道長の屋敷に通うのも気苦労が多かったようです。
973年。赤染衛門は娘を出産。
赤染衛門と匡衡の子供は赤染衛門が育てました。二人の間には少なくとも娘2人、息子1人がいました。
やがて赤染衛門は主人の屋敷を出て大江匡衡と同居。匡衡の北の方になってからは安定した夫婦生活が始まります。
主家の道長・倫子との付き合いは続きます。
赤染衛門と匡衡は大変仲がよく、そのためか道長の周辺の人達は赤染衛門のことを「匡衡衛門」と呼んでいたようです。
永延2年(988年)。源倫子が彰子を出産。
長保元年(999年)。彰子が一条天皇に入内。
長保2年(1000年)。彰子が中宮になりました。
長保3年(1001年)。夫の匡衡が尾張守になり、赤染衛門も尾張に同行しました。赤染衛門にとっては都を離れるのは初めてだったらしく尾張への旅の記録を詳しく残しています。
尾張国で暮らす
尾張国を治めるのは大変らしく、前の国司は住民に訴えられて解任されていました。匡衡の任期中にもトラブルが会ったようです。そのため赤染衛門は夫が無事役目を果たせるように神に歌を捧げました。
尾張で暮らしている間も、息子・挙周の結婚問題。和泉式部の離婚への助言など。
匡衡は4年間の任期を無事に終え。熱田社にお礼の奉納して赤染衛門とともに都に戻りました。
当時の貴族の女性によくある感覚ですが。赤染衛門も尾張での生活は一時的なものと割り切り、やはり都の生活が懐かしかったようです。
都に戻った赤染衛門は再び倫子に仕えました。
寛弘6年(1009年)。匡衡は尾張守になりましたが、1年で都に近い丹波守に変更。
赤染衛門は一緒に赴任先に行きました。
寛弘8年(1011年)。夫の匡衡が死亡。享年61。
過保護な赤染衛門
赤染衛門と匡衡の間には少なくとも娘が2人、息子が1人ました。
江侍従(ごうのじじゅう)
973年に生まれた記録がある中では最初の子供。
本名は不明。
赤染衛門と匡衡の子供は全て赤染衛門に育てられ。娘たちは母とともに藤原道長一家に仕えました。
江侍従は道長の家司・高階業遠と結婚。業遠の死後は、20歳年下の藤原兼房(道長の兄・道兼の孫)と再婚。道長の娘で三条天皇の中宮の妍子に仕えました。母譲りの歌の才能に恵まれ「後拾遺和歌集」にも入選しています。赤染衛門の歌をまとめて歌集にしたのも江侍従と言われます。
娘
赤染衛門には名前も生年も不明の娘がいました。
娘は何人かの貴族と付き合い。赤染衛門が歌の代筆をしていましたが。若いころに亡くなりました。
挙周(たかちか)
赤染衛門と匡衡の長男。
挙周は漢学の知識はありますが、歌を詠むのは苦手。
挙周は一族の大江雅到の娘(和泉式部の妹)と結婚後に離別。 高階明順の娘と結婚して子供ができましたが離別しました。
求婚から離別まで歌の苦手な息子に代わって赤染衛門が歌を代筆しました。
中には
挙周の歌(母・赤染衛門が代筆)→大江雅到の娘
大江雅到の娘の歌(姉・和泉式部が代筆)→挙周
という。息子や妹のために赤染衛門と和泉式部が代筆しあうこともありました。
挙周の子は赤染衛門が引き取って育てました。
赤染衛門は人脈を活かして息子の就職活動を行っていて。
挙周が出世できずに伸び悩んでいると天皇の側近の女御や藤原道長の妻・倫子や皇太后になった上東門院彰子に歌を送り息子が士官できない年老いた母の辛さを訴えました。それに心を動かされたのか、挙周は蔵人に任命され。和泉国(大阪府南部)の国司になりました。ところが挙周は激務のため妻に会うことができずに離別。重病になってしまいます。
息子の病は住吉大神の祟りだと聞いたので住吉社(大阪市)に行って願掛け。
「代はらむと思ふ命は惜しからで さても別れむほどぞ悲し」
(息子の命と代えようと思う私の命は惜しくないけれど、そうして息子と別れるならやはり悲しいことです)
という歌を奉納。挙周は全快しました。
ところが母の行いを聞いた挙周は住吉社に行って
「母が死んでは生きていけないので、母がお願いした分は私の命で償って欲しい」と願ったといいます。
その後。任期が終わって都に戻った挙周は付き合っていた女性たちとは別れて母と共に暮らしました。
晩年の赤染衛門
長元8年(1035年)。関白左大臣 藤原頼通が開催した歌合に出て歌を詠みました。
長久2年(1041年)。弘徽殿女御 生子が主催したした歌合に出て歌を詠みました。
同じ年。曾孫・国房が誕生。産着を縫って届け、曾孫の誕生を祝う歌を詠みました。
赤染衛門のその後の消息はわかりません。
このころに亡くなったにしても80歳近い高齢。当時としてはかなり長生きです。
歌人・文人としての赤染衛門
平安時代中ごろの宮中や貴族の家では歌合(うたあわせ)や物合わせが行われていました。
歌合とは歌人を2チームに分けて歌を出し合って優劣を競う遊びです。物合わせとは品物を持ち寄って優劣を競う遊びですが、歌も必要でした。基本的には遊びですが、貴族の場合は歌の良し悪しで出世が決まってしまうことがあるので真剣勝負です。
歌合には女房たちも応援団として出席していました。中には自分で歌を詠む女房も現れます。赤染衛門も歌合に歌を出す女房でした。
赤染衛門は屏風絵の歌の作成もしました。当時、貴族の間では豪華な屏風絵を作り和歌を書くのが流行ってきました。赤染衛門は屏風絵に載せる歌を作っていました。
歌合は出されたお題に合った歌を作らないといけません。屏風の歌も発注主のリクエストに答えなくてはいけません。もともと代作をしていた赤染衛門はその人や場の状況に合わせた歌を作るのが得意でした。職人タイプの歌人です。どちらかというと紫式部もこのタイプ。
それに対して、和泉式部は自分の感情を言葉豊かに表現する芸術家タイプの歌人。
評価する人によって好き嫌いが分かれますし。どちらがいい悪いではなく個性の問題です。
晩年。藤原道長の息子・頼通の求めによって自撰歌集「赤染衛門集」を献上しました。
また53代宇多天皇から73代堀河天皇まで時代を藤原摂関家を中心に描いた物語風の歴史書「栄花物語」全40巻(正編30・続編10巻)のうち。正編(道長の祖父・藤原師輔が権力を握り、道長が没するまでを描く)の主要な筆者ともいわれます。
「拾遺和歌集」などの勅撰和歌集に93首が選ばれています。
「小倉百人一首」59番、「拾遺和歌集」恋690番
「やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな」
ためらわずに寝てしまえばよかったのに。夜があけて月が西に傾くまで見ていましたよ。
赤染衛門が姉妹のために作った歌。姉妹は恋人の藤原道隆を待ち、一晩中寝ずに待っていましたが道隆は来ませんでした。それを怒っている歌。
映像作品
TVドラマ
NHK大河ドラマ「光る君へ」 2024年、演:凰稀かなめ
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