光る君へでまひろが舞う「五節の舞(ごせちのまい)」とは?

平安時代 4 平安時代

大河ドラマ「光る君へ」第4話「五節の舞姫」では「五節の舞(ごせちのまい)」が披露されます。

すでにヒロインのまひろたちが豪華な衣装を来て舞っている姿がドラマの紹介画像でも何度も紹介されています。

五節の舞は実際に存在する舞のひとつで。雅楽の中では珍しい女性だけで演じる舞です。

この記事では五節の舞とはどういうものなのか。ドラマの内容も含めて紹介します。

 

 

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五節の舞とは

五節の舞

現代の五節舞姫の衣装

出典:wikipwdia

 

豊明節会で演じられた4から5人で舞う雅楽の一種。

雅楽では唯一、女性だけで演じる舞です。

大嘗祭は5人、新嘗祭は4人だったようです。

平安時代の舞姫は手に衵扇(あこめおうぎ、木製の扇)をもち、女房装束(十二単)で舞いました。長袴に唐衣(上着、単で一番上に着る服、丈は短め)、五衣(いつつぎぬ、唐衣の下に着る服)、裳(も、後ろに伸ばして引きずっている部分)を付けています。女房装束はこの時代の女性の正装。頭には宝髻(ほうけい、奈良時代の身分の高い女性が付けた冠)をつけています。

重さも相当なものでしょう。

 

 

名の由来

奈良時代には五節会で行われる舞だったので五節の舞と呼ばれたと思われます。

宮中では節会(せちえ)という年中行事があります。特に重要な5つの節会は五節会(ごせちえ)と言いました。

五節会とは
元日節会(1月1日)
白馬節会(1月7日)
踏歌節会(1月16日)
端午節会(5月5日)
豊明節会(11月新嘗祭翌日の辰の日、大嘗祭翌日の午の日)
です。

でもそれだけではなく五節舞は大仏建立にあわせて東大寺に八幡神が来た時や、伊勢神宮でも演じられました。

 

歴史

なにぶん古いものなのでその由来ははっきりしません。専門家の間でも諸説ありです。

一般には
天武天皇が吉野に行幸した時、神秘的な雲がたちこめ。天女が舞を披露した。というのが五節の舞の由来とされています。

少なくとも平安時代の人たちはそう信じていましたし。「続日本後紀」には奈良時代の天武天皇も「天武天皇が創始した」と話しています。

でもさすがに天女がやってきて舞ったというのは作り話っぽいかんじです。

実は古事記に似た話があるのです。雄略天皇が吉野に行幸した時、踊りの上手な女の子が舞ったので雄略天皇が歌を作り神のようだと褒めた。という話があります。

天武天皇は日本各地から踊りの上手な人を集め宮中で舞を教えさせました。その中に五節の舞の原型になるものがあったのかもしれません。でもさすがに平安時代の五節の舞と同じというわけにはいかないでしょうね。

天武天皇の芸能事業の整備と雄略天皇の吉野行幸の話が一緒になって五節の舞の起源にされたのかもしれません。

歴史書に最初に「五節舞」の言葉が出てくるのは奈良時代。聖武天皇の治世の天平14年(742)。翌年には皇太子・阿倍内親王(後の孝謙天皇)が舞っています。

当時から天皇が出席する公式行事で演じられていたようです。

当然、平安時代と奈良時代では衣装が違いますが。基本的な踊り方は同じなのでしょう。

 

古代の田舞が原型?

「五節舞」以前には「五節田舞」というものが宮中で演じられていました。「五節田舞」と「五節舞」が同じものなら天平時代よりもさらに古い踊りといえます。

天智天皇の時代から続く踊りに「田舞」というのがあり、農作物の豊作を祝う素朴な踊りだったようです。これが天武天皇の時代に宮中で演じられるようになったのかもしれません。

聖武天皇の時代には唐から輸入した知識を取り入れて踊りも洗練されたものになり。豊作を祝う素朴な踊りから、天皇を中心にした国家を祝う意味が込められたものへと変化したようです。

天武天皇は天武天皇が創設したという踊りを国の宝として後の時代に伝えるように命令し。その舞を阿倍内親王に舞わせ。その五節の舞を見た元正上皇は「舞をみれば神から始まる大和の国(日本)の貴さを感じる」と歌に詠んでいます。

すでに素朴な田舞の面影は薄れ、神秘的で優雅な踊りに進化していたのかもしれません。

なので。「五節の舞」の直接の起源は奈良時代に作られたものといえそうです。

儀式的なものになっても「未婚の女性だけで舞う」という部分は受け継がれ巫女の踊りのような神事的な部分が残っているようです。

これが天皇の即位式の踊りではなく、新嘗祭や大嘗祭のときに舞うのも豊作を祝う神事の名残りといえそうです。というのも新嘗祭は実った米を初めて食べて神に感謝する神事ですし、大嘗祭は天皇が即位して最初に行う新嘗祭のこと。稲作と関係の深い行事だからです。

 

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平安時代中ごろの五節の舞

紫式部が生きた時代。平安時代中ごろの五節の舞はどのようなものだったのでしょうか?

平安時代の五節の舞の性格がドラマ「光る君へ・第4話 五節の舞」の演出やストーリーにも影響しています。

平安時代になって変化する五節の舞

奈良時代には年に何度か演じられたと思われる五節の舞ですが。平安時代の中ごろには新嘗祭・大嘗祭の後の豊明節会で行われる舞になっていました。

「それじゃあ五節じゃないじゃん」という声が聞こえてきそうです。公家たちは前例踏襲ですから一度決まった名前はなかなか変えられないのでしょう。

この時代には「天女が降りてきて天武天皇のために舞った」という伝説が信じられていたので。五節の舞のしぐさに天女の華麗さを感じていた人もいたようです。

五節の名の由来も平安時代には「神女(天女)が5度袖をひるがえしたから」というものになっていました。平安時代には五節会で舞うものではなくなり、由来がわからなくなっていたので「五節の舞」の名前から想像してストーリーを作ったのでしょう。

 

公家の娘が舞姫になる

平安時代の公家には五節の舞を舞う姫を出さなければいけない。という決まりがありました。でも娘を出すのは嫌という公家もいますし。経済的にも負担になります。そこで専属の舞姫を育成してはどうかという意見も出たようですが実現しませんでした。

平安時代の中ごろには公卿(上級貴族)と受領(下級貴族・紫式部はこのクラス)が2人ずつ出すようになります。公卿は実の娘でなくてもいいようです。

平安時代の中ごろには貴族の女性は素顔を他の男に見られるのははしたない・恥ずかしいという考えが広まり。大勢の男性貴族の前で素顔を晒して舞うのを嫌だと思う人もいたでしょう。

なので公卿の家から舞姫が出ることはなくなり、それより身分の低い受領階級の家(紫式部もこのクラス)から出るようになりました。

五節の舞に出ると天皇の女になる?

五節の舞は必ず天皇の前で舞います。そこで平安時代の前半にはお妃候補の選抜試験みたいな意味もあったという説もあります。

貴族たちは娘に豪華な服を着せ家の名誉をかけて競っていました。

でもやがて妃を選ぶ場としての意味もなくなったといいます。藤原氏が本格的に摂関政治を行うころからそうなったので、摂関家の力が強まり妃たちが政治的な思惑で選ばれるようになったことと関係があるのかもしれません。

でも五節の舞姫から後宮に入る人を選ぶ規則があるわけではなく。貴族たちが娘を出していたことや、後宮に舞姫出身者らしき人がいる。という結果からの想像です。

他国でも舞姫を気に入って側室にする皇帝もいます。王朝時代ならそういうことがあっても不思議ではない。くらいに思えばいいでしょう。

 

その後の五節の舞

五節の舞は平安時代の後も続きましたが、省略されたり内容が変化したりしました。武家政権時代には何度か中断。現代では天皇の即位後の大嘗祭で行われます。そのため数十年に一度の貴重な舞いになっています。

 

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ドラマ「光る君へ」の五節の舞

そうした平安時代の五節の舞事情を知るとドラマでなぜこういう演出になっているのかも分かります。

ドラマでは花山天皇の即位後の五節の舞で左大臣・源雅信の娘・倫子が出ることになりました。

源雅信は公卿という地位の高い貴族です。でもこの時代なら公卿は娘でなくても養女でもいいのですが。そこは雅信の思惑があるのでしょう。

どこまで本当かわかりませんけれど花山天皇は様々なエピソードのある人物。女好きとも言われます。このドラマでも花山天皇は変わり者として描かれています。

ドラマの倫子はあまり評判のよくない花山天皇に気に入られるのが嫌でまひろ(紫式部)に代わりに出て欲しいと依頼しました。

この頃にはお妃候補を選ぶ場ではなくなっていたはずですが「あの花山天皇ならやりかねない」と思ったのかもしれません。

まひろは受領階級(為時はまだ受領にはなってませんが位はそのへん)の娘。出場資格はあります。

でもこのへんのいきさつはドラマらしいです。

舞姫が着る衣装は出場させる貴族側の負担です。貴族とはいえ裕福といえない為時が豪華な衣装を用意できるはずありません。これは倫子が着る予定で、左大臣家が用意したのでしょうね。

史実では?

ちなみに史実では紫式部は五節の舞を見たことはありますが、出たことはありません。日記には男性貴族の視線にさらされる五節の舞姫を見て気の毒に思ったと書いています。

紫式部が五節の舞を見たのは夫の死後、30歳を超えて宮中に仕えるようになってから。マイナス思考で内向的な性格が強くなっていたころの紫式部らしい感想です。

でも若いころの紫式部は勝ち気な面もあったようですから、若いころの紫式部が五節の舞に出ていたらどう思ったのか気になるところです。もちろん為時の経済力では無理ですけど。

 

 

 

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