丹後局(たんごのつぼね)は平安時代末期から鎌倉時代の女性。
後白河法皇から信頼され朝廷内で大きな影響力を持っていた人物です。
本名は高階栄子(たかしなの よしこ)です。
丹後局(たんごのつぼね)は候名(さぶらいな=女性が宮仕えのときに名乗る名前)
最初は平業房と結婚していましたが。平業房の死後は、後白河法皇に仕える女御になり寵愛をうけました。
後白河法皇の代理人になって源頼朝たち鎌倉方と交渉を行いました。歴史上重要なできごとも丹後局と鎌倉方との交渉の結果に影響されています。
とはいっても丹後局は鎌倉方の女性と比べてもあまり知られていません。
知られざる影の実力者だった丹後局とはどんな人だったのでしょうか。
丹後局・高階 栄子 とは
名 前:高階 栄子(たかしなの よしこ)
通 称:丹後局(たんごのつぼね)
生 年:久安5年(1149年)または仁平元年(1151年)ごろ
没 年:建保4年(1216年)
享 年:66~68くらい
父:澄雲
母:?
夫:平業房、後白河法皇
子:業兼、山科教成、女子3人
丹後局(栄子)のおいたち
高階家は公卿の家柄。
栄子の父や祖父は比叡山に入り様々な役職を務めていました。
父の澄雲(ちょううん)は延暦寺で三綱の上座という寺務の要職をしています。
母は不明。
この時代、公式には僧侶の結婚は認められていませんが。非公式には僧侶が妻を娶ることは黙認されていました。
建春門院の乳母・政子(若狭局)は栄子の叔母。政子は平正盛の娘です。
栄子の母も平氏出身ではないかともいわれます。
平業房と結婚
時期は不明ですがおおよそ長寛1、2年(1163、1164年)ごろ、平業房(たいらの なりふさ)と結婚。
夫の平業房は桓武平氏の一族です。平清盛とは別の家系です。平業房は北面の武士として後白河法皇に仕え。後白河法皇の女御・建礼門院の護衛を行っていました。
栄子は平業房との間に2男3女を生みました。
次男の教成は藤原実教の養子になって山科家の初代になりました。
治承3年(1179年)。平清盛が後白河法皇を鳥羽殿に幽閉しました。(治承三年の政変)
法皇の側近だった業房は伊豆国に流罪になりました。業房は流刑先で脱走しようとして捕まり処刑されました。
治承4年(1180年)。後白河法皇の皇子・以仁王が平氏追討の令旨(皇子の命令)を出し。各地で平氏に対抗する挙兵が盛んになりました。
後白河法皇に仕えた時代
丹後局(栄子)が後白河法皇の寵愛を受ける
治承4年(1180年)。後白河法皇のまわりには最初は護衛と数人の従者しかいませんでした。平清盛は数人の女御の出入りを許可しました。その出入りを許可された女御の中に丹後局(栄子)がいました。
鳥羽殿で後白河法皇に仕え始めた丹後局は美貌と頭の良さから後白河法皇の寵愛をうけました。
治承5年(1181年)1月。反平家方との戦いに困った平清盛の要請で、後白河法皇の院政が再開しました。
同年閏2月。平清盛が死去。
後白河法皇は六波羅からもとの住居の法住寺殿に戻りました。
治承5年 7月。丹後局は浄土寺堂で亡き夫・業房の供養を行いました。このとき法王は多くの殿上人(四位以下の公家)を派遣しました。法王が丹後局と業房のためにここまでするのは異例のことで。公家たちは驚きました。
治承5年10月。後白河法皇との間に覲子(あきこ)内親王が誕生しました。
丹後局は法王との子を身ごもっているときに亡き夫の供養を行っていたことになります。法王との関係は業房の死後のことです。法王の寵愛をうけるようになっても業房への想いは強かったようです。
法王にとっても業房は自分を最後まで支えた忠臣です。業房の供養をすることは丹後局と業房の両方への心遣いだったのでしょう。
後白河法皇は丹後局を非常に寵愛しました。そのため、丹後局の思惑は後白河法皇の決定に大きな影響を与えました。
右大臣・藤原兼実が六条坊門東洞院にもっていた土地を後白河法皇に寄進。法王はこの土地を邸宅用として丹後局に与えました。丹後局は法王のいる六条殿(六条西洞院)と六条坊門東洞院の邸宅の両方で暮らしました。
丹後局は朝廷の人事にも影響を与え。丹後局の親類縁者も出世しました。
後白河法皇の丹後局へのあまりにもの寵愛ぶりに公卿達(高位(従三位以上)の公家)たちの中には不満を持つ者もいて。右大臣 藤原兼実は日記の「玉葉」の中で丹後局のことを「朝務は偏にかの唇吻にあり(政治は彼女の言葉に左右される)」とか「重ね重ねの狂乱か」などと書いています。
朝廷の公卿の中には二人の様子を玄宗皇帝と楊貴妃に例えるものもいました。
丹後局は美貌だけでなく頭も良い女性でした。自分や一族の反映だけでなく政治への介入も行うようになります。
後鳥羽天皇の即位に協力
寿永2年(1183年)7月。平家は源義仲との戦いに負け続け、平宗盛は平安京からの脱出を決定。平家は安徳天皇、三種の神器を持って都落ちしました。
8月。都に天皇がいなくなったので、後白河法皇は新しい天皇をたてることにしました。
故高倉天皇の皇子、三宮・惟明親王と四宮・尊成親王が候補になりました。このとき丹後局が夢で「四宮が松の枝を手にして行幸されるようなお姿を見た」と法皇に進言。さらに木曾義仲が以仁王の皇子・北陸宮を次の天皇にと横やりを入れてきました。
そこでもういちど卜占で選び直すことになり。四宮・尊成親王(後鳥羽天皇)が天皇に決まりました。
後鳥羽天皇の即位に影響を与えたのが丹後局だったといわれます。
卜占は占いのことですが、朝廷の決定に「神の意志である」という権威を与えるための儀式として行われました。後白河法皇の頭の中では尊成親王を次の天皇にしようという考えがあったようです。丹後局も「夢のお告げ」という形で後白河法皇を助けました。
後鳥羽天皇の即位に協力した丹後局は後鳥羽時代の後宮で大きな発言力をもつようになります。
鎌倉幕府誕生1185年の根拠がなくなった?
文治元年(1185年)。源頼朝は源義経たちの捜索を名目に全国の支配権を得るため。諸国総追捕使、総地頭の設置を認められました。ところが総地頭の横暴がひどかったので全国から苦情が殺到。源頼朝としても無視できなくなります。
文治2年(1186年)鎌倉から大江広元が上洛して朝廷と交渉しました。このとき朝廷側の交渉担当は丹後局でした。
丹後局は鎌倉方の言い分を聞かず、各地の武士の横暴を抑えるように伝えました。その結果、源頼朝も譲歩するしかなくなり。総地頭の権限が停止され。謀反人とされた源義経の行方を追求するための権限だけが残されました。つまり鎌倉殿は警察の長官みたいなあつかいです。
鎌倉幕府の成立は1185年と言われることがあります。その根拠は諸国総追捕使、総地頭を設置して全国の支配権を手にしたからとされています。ところが丹後局たちの交渉でその権限は停止され、頼朝は全国の支配に失敗しました。
というわけで「鎌倉幕府成立は1185年」は根拠を失っています。
「1185(イイハコ)誕生鎌倉幕府」は意味がないなのです。
藤原家の分割相続に介入
平家滅亡後の文治2年(1186年)。
源頼朝は朝廷への発言力を強めていました。源頼朝と親しい藤原兼実が摂政・藤原長者になりました。でもそれまで氏長者だった藤原基通は領地を兼実に相続させるのを嫌がりました。
藤原兼実が嫌いな後白河法皇と丹後局は藤原基通に加担しました。源頼朝も強引に相続させることはできないと考え交渉が行われました。このとき法皇側の交渉担当が丹後局。頼朝側の交渉担当が大江広元でした。
粘り強い交渉の結果、藤原兼実がすべて相続するのを阻止して藤原家を分割相続させることにしました。その結果。藤原家は近衛家(基通の子孫)と九条家(兼実の子孫)に分かれることになります。
後白河法皇の代理人として交渉を行う
朝廷と鎌倉方の間で重大な問題があるたびに丹後局は交渉の場に現れました。
丹後局は独断で交渉していたのではありません。交渉の場には後白河法皇がいました。どのように返事するか法皇から教えてもらい、丹後局が返事をしていました。交渉は自分の意見を言うだけの立場より、実際に相手と交渉する代理人のほうが大変です。丹後局は法皇が代弁者を任せられる人物と認めていたのです。
文治3年(1187年)2月。従三位になりました。丹後局の出世にはこうした功績があったからだといえます。
源頼朝も後白河法皇と丹後局がいる間は、なかなか武家側の意見を押し通すことができません。そこで内裏の修復や六条院の復興、丹後局への贈り物など法皇側の印象良くする活動をおこなっています。
建久元年(1190年)。源頼朝は上洛。丹後局へもお土産を贈り、丹後局を喜ばせました。丹後局も扇100本を返礼品として贈りました。
建久2年(1191年)6月。覲子内親王が「宣陽門院」の院号を与えられました。丹後局は従二位になりました。
建久2年9月。浄土寺堂が火事で焼失。
早くも11月には再建。丹後局は法王とともに浄土寺堂で3夜過ごしました。浄土寺堂は前の夫・平業房を供養した場所ですが、丹後局にとってもなくてはならない場所にもなっていました。
後白河法皇の最期
建久2年(1191年)。後白河法皇が病に倒れます。丹後局も看病しました。しかし法皇は回復しませんでした。
建久3年(1192年)3月13日。後白河法皇が崩御。
丹後局はその日のうちに落飾しました。
丹後局は法皇の生前に高松殿跡地、山科院御領(山科荘)、その他の荘園を与えられていました。法皇の死後も丹後局のものになると改めて決定されました。
後白河法皇の没後
最後の暗躍
後白河法皇の没後しばらくは浄土寺堂にこもって平業房や後白河法皇の菩提を弔ったり、宣陽門院御所(六条院)にいる娘の宣陽門院と同居したりしながら暮らしていたようです。
朝廷では後白河法皇の死後。源頼朝と藤原兼実が巻き返しをはじめました。
建久3年(1192年)7月。後白河法皇が拒否していた「征夷大将軍」の位が源頼朝に与えられます。
建久6年(1195年)。源頼朝が北条政子をともなって上洛。宣陽門院御所(六条院)にいる丹後局を訪問しました。
後白河法皇の死後、力を失ったとはいえ。宣陽門院(後白河法皇と丹後局の娘)の母として影響力は残していましたし。藤原基通たち有力な公家も味方しています。
このころの丹後局は「宣陽門院御母、旧院執権の女房」などと表現されて、鎌倉方からも一目置かれていたようです。
藤原基通や土御門通親たち、源頼朝・藤原兼実を嫌う人々が丹後局のもとに通っていました。頼朝としても無視できない勢力でした。
このころ源頼朝は娘の大姫を後鳥羽天皇に入内させようとしていました。そのためにも丹後局のご機嫌を取る必要があったのです。でも丹後局はなかなか同意しません。
頼朝は砂金や銀の装飾、高価な織物などを丹後局に贈りました。
やがて丹後局のご機嫌をとりたい源頼朝は藤原兼実と距離をおくようになります。
建久7年(1196年)。源頼朝の支持を失った藤原兼実は力を失い。藤原基通が再び藤原長者になり、藤原兼実の支持者も職を失いました。これを建久七年の政変といいます。
建久8年(1197年)。丹後局が大姫の入内を引き伸ばしにしている間に大姫が病死。
建久9年(1198年)。土御門天皇が即位。後鳥羽上皇の院政が始まりました。
建久10年(1199年)。源頼朝も死去します。
平家滅亡から鎌倉幕府成立までは源頼朝の思い通りに進んで一気に武家社会になったように語られます。細かい部分では源頼朝も朝廷との交渉には苦労していて、気を使った相手の一人に丹後局もいたのです。
晩年の丹後局
建仁2年(1202年)に藤原通親が死去。
代わって朝廷で力を持ったのは土御門通親でした。
土御門通親の妻の妹は卿局。卿局は後鳥羽上皇の乳母です。後鳥羽時代の後宮で力をもっていたのは卿局でした。もはや丹後局に出番はありません。
後鳥羽上皇が院政を行う開始すると丹後局の影響力は急激におちていきました。歴史にはあまり登場しなくなります。
その後、丹後局は朝廷から去って亡き夫・業房の所領にあった浄土寺で暮らしました。このため「浄土寺二位」とも言われました。
没年はわからない部分もありますが。建保4年(1216年)2月か3月とされます。
丹後局の所領だった山科荘は次男の教成が相続。教成の子孫は「山科家」と名乗るようになります。
テレビドラマ
源義経 1966年、NHK大河ドラマ 演:原泉
草燃える 1979年、NHK大河ドラマ 演:草笛光子
源義経 1991年、日本テレビ 演:桂川京子
炎立つ 1993年、NHK大河ドラマ 演:木村翠
義経 2005年、NHK大河ドラマ 演:夏木マリ
鎌倉殿の13人 2005年、NHK大河ドラマ 演:鈴木京香
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