藤原兼家・花山天皇を退位させ権力を手にした策士

藤原北家九条流 4 平安時代

藤原兼家(ふじわらの かねいえ)は平安時代 中期の貴族。

藤原道長の父親です。

藤原北家九条流の一族。

花山天皇を騙して退位に追い込み、娘の産んだ懐仁親王(後の一条天皇)を即位させました。

藤原兼家は天皇の外戚として力を持ちました。

藤原道長が大きな力を持てたのは父の兼家の築いた勢力があったからといえます。

藤原兼家はどのような人物だったのか紹介します。

 

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藤原兼家

名前:藤原兼家(ふじわらの かねいえ)
生 年:延長7年(929年)
没 年:永祚2年7月2日(990年7月26日)

地位:摂政、関白、太政大臣。
官位:従一位
法号:如実

父:藤原師輔(ふじわらの もろすけ)
母:藤原盛子(藤原経邦の娘)

兄弟:安子(村上天皇の中宮)、兼通ほか。

おいたち

醍醐天皇の時代。
延長7年(929年)に誕生。

父は藤原師輔。
 師輔は右大臣。藤原北家九条流の祖。
 師輔は出世争いでは兄の実頼に劣り、摂政関白にはなりませんでした。 娘を天皇に嫁がせて外戚になりました。師輔の九条流の勢力は、実頼の小野宮流を凌ぐようになります。

母は藤原盛子(藤原経邦の娘)

兼家は三男です。

村上天皇の時代

天慶9年(946年)。村上天皇が即位。
姉の安子は村上天皇の中宮。兼家は村上天皇の義理の弟になります。

天暦2年(948年)。従五位下になりました。

天暦3年(949年)。昇殿を許されました。

村上天皇の時代には左京大夫、春宮亮を務めました。

960年。父・師輔が死亡。九条流の中心は長兄・伊尹になりました。

叔父・実頼が関白太政大臣になり、伊尹たち兄弟は実頼に対抗していました。

姉は弘徽殿の女御

このころ兼家は村上天皇から叱られ一時謹慎。というのも兼家の姉・安子が村上天皇の寵愛する女御・芳子に暴力を振るったため。村上天皇は皇太子(後の冷泉天皇)の母の安子を叱ることができず、かわりに兄弟の兼家たちを謹慎させました。八つ当たりです。安子は兄弟への仕打ちに怒って村上天皇に猛抗議。兼家は謹慎が解かれました。

その後、安子は中宮(皇后)になります。

安子は弘徽殿(こきでん)を寝所にしていたので「弘徽殿の女御」と呼ばれました。源氏物語に登場する弘徽殿の女御のモデルになったと言われます。

 

冷泉天皇の時代

康保4年(967年)。冷泉天皇が即位。
冷泉天皇は姉・中宮安子の息子。兼家は冷泉天皇の叔父になります。

長兄・伊尹に気に入られていた兼家は次兄・兼通に代わって蔵人頭に任命され左近衛中将も兼ねました。

翌安和元年(968年)。従三位になり、次兄の兼通よりも出世しました。

安和の変

安和2年(969年)。左大臣・源高明は謀反の罪を着せられて突如失脚。
首謀者はわかっていませんが。伊尹が仕組んだとも言われます。

この年。兼家は中納言になりました。普通は蔵人頭から参議に昇進するものですが。兼家は一気に中納言に出世しました。これは兼家が長兄・伊尹に協力していたためと言われます。兼家は兄に協力して安和の変に関わっていたのではないかとも言われます。

このころ娘・超子を入内させました。

天禄3年(972年)。正三位 大納言になり。右近衛大将・按察使を兼ねました。

兼家は長兄・伊尹の政権に協力。

伊尹の競争相手でもあった兼通は冷遇されました。

安和2年(969年9月27日)冷泉天皇が退位。円融天皇が即位しました。

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円融天皇の時代

兄・兼通との対立

兼家は長兄・伊尹に協力して出世。その過程で次兄・兼通と官位が逆転。兼通は兼家を恨みました。

伊尹が重病のため辞表を提出。

すると兼家と次兄・兼通との対立が表面化します。

兼家と兼通はどちらが関白になるかで円融天皇の前で口論になりました。円融天皇は生母・安子の遺言に従って年長者の兼通を関白にしました。

兼家はすでに長女・超子を冷泉上皇に嫁がせ、居貞親王(後の三条天皇)が誕生しています。さらに次女・詮子を円融天皇の女御に入れようとしましたが兼通に阻止されます。

貞元2年(977年)。兼通が病気になり悪化。死期が迫ってきました。ようやく自分の時代が来たと思った兼家は禁裏へ参内。

兼通は兼家の車列が来るのを知り自分の所に見舞いに来た期待しました。でも兼家の車は兼通の門前を素通り。兼通は激怒して病の身にも関わらず無理して宮中に向かいました。

そして兼通は従兄の藤原頼忠を次の関白に任命。兼家の右大将・按察使の職を奪って治部卿に格下げ。その後、まもなく兼通は死去しました。

兼家は円融天皇に長歌を献上して自分の落胆している様子を伝えましたが、天皇からは「しばらく待つように」という意味の歌が帰ってきました。

復権

頼忠は兼通と違い兼家をそれほど憎んでいません。

天元元年(979年)。兼家は右大臣に抜擢。朝堂に復帰することができました。

さらに詮子が入内。懐仁親王(後の一条天皇)が誕生しました。

兼家は詮子を中宮にしようと考えていましたが、天元5年(982年)には頼忠の娘・遵子が円融天皇の中宮になったり落胆。

兼家は詮子や懐仁親王とともに東三條殿の邸宅に引き籠りました。円融天皇が使者を送っても返事もしませんでした。

永観2年(984年)7月。円融天皇は相撲節会を懐仁親王に見せたいと言って参内を求めましたが、兼家は病気を理由にして拒否。でも天皇の使者がやってくるので兼家は仕方なく参内しました。

するとそこで天皇から譲位の意向が伝えられ、兼家は大変喜びました。

 

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花山天皇の時代

永観2年(984年)8月。円融天皇が譲位。花山天皇が即位しました。

兼家は天皇の外戚として摂政・氏長者に就任。しかし頼忠が関白の職に留まり、甥の藤原義懐が権中納言に昇進。兼家が独占的な力を持っていたのではありません。

花山天皇退位の陰謀・寛和の変

花山天皇の寵愛を受けていた女御・藤原忯子が急死。花山天皇は絶望して出家を考えるようになりました。

それを知った兼家は策略を巡らせ、花山天皇を出家させ、懐仁親王を即位させました(寛和の変)。

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一条天皇の時代

懐仁親王(一条天皇)が即位。兼家は摂政・氏長者としての地位を築きました。

彼は有能な人材を登用しましたが。自身の地位を高め、強引な人事や邸宅の建て替えを行いました。

永祚元年(989年)。円融法皇の反対を押し切って長男・道隆を内大臣に任命「大臣4人制」を実現。

頼忠の薨去後は兼家が太政大臣に就任。関白になりましたが3日で病気を理由に嫡男・道隆に関白を譲って出家しました。

別邸の二条京極殿を「法興院」と改めてそこで暮らしましたが、2ヶ月後に病死。享年62歳。

 

映像作品

TVドラマ
NHK大河ドラマ「光る君へ」 2024年、演:段田安則

 

 

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